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「解説『スートラ・サムッチャヤ』」第三回(16)

 はい。そして最後に、「衆生の苦悩ははかりしれないので、誹謗され妨害されても、菩提行から退かない。」と。
 これはもちろん、最初の発願としてね、菩薩っていうのは、みんなのために仏陀になると。そして、「じゃあ、いつまで?」っていう限定はないんだね、仏陀にはね。つまり、みんなが救われるまでだから。だからそれまではずーっとみんなに付き合うわけですね。で、その途上で多くの苦悩が自分にもやってくる。で、これも前、『心の訓練』とかの勉強会でも言ったけども、不当ともいえるような苦しみに、当然、菩薩行を行く人っていうのは会うわけですね。不当ってどういうことかっていうと、相手のためを思ってやってあげてるのに、もうすごい仕打ちで返されたりとか、あるいは――前も言ったけど、わたしが昔、経験したっていうか実際にあったことで……ある人がね、例えばわたしに対して、すごくこうバーッてひどいこと言ってきたりして、で、まあその人は、ちょっとこう、やっぱり精神的にいろんな苦しみが多くてね、で、わたしはその人をもっと修行とかさせようと思ったりとか、あるいは正しい生き方をさせようと思って、いろいろこう対処してあげるっていうか、対処するわけだね。で、一生懸命苦労して相手の話に付き合ったりとか、いろいろやってあげたりっていう気持ちが、こっちにあるわけだね。でもまあ、バーッてこう悪態とかよくついてくる。で、悪態つきながら、その人は何を言うかっていうと、「ほら! もっとがんばってよ! わたしを救え!」と(笑)。

(一同笑)

「そんなんで大丈夫なのか、お前は?」みたいな(笑)。「お前が言うか!」っていうようなことを、こう言ってきたりするんだね(笑)。で、それはまあ、非常に面白いっていうか、分かりやすいパターンだけども。まあここまで分かりやすくなくても、例えば自分がこんなに相手のこと思ってるのに、でも相手はそんなこと全然分かんなくて、いろんな苦しみをこっちに与えてきたりってするときも多々あると。でもそれは、言ってみれば当たり前なんです。つまり、みんな苦しんでるんだから。
 これはね、日常生活においても、そういう気持ちを持たなきゃいけない。わたしも、これ前、そういうことに気付いたことがあってね。気付いたっていうのは、例えば皆さんの周りでも、例えば嫌われ者っているかもしれない。例えばすごく怒りっぽくて、いつも人の悪口とか言ってて、で、いつも憎しみに満ちてたりとかね。で、そういう人っていうのは、普通はですよ、普通は非難とか排除の対象になるよね。例えば何とかさんっていう人がそういう人だとしたら、「ああ、ちょっとあの人、いい加減にしてほしい」と。で、すごく、だいたいそういう人って性格が強かったりするから、ワーッてこう、周りにいろんな苦しみを与えると。「あの人ちょっと、なんとかしてほしいな」って気持ちになると思うんだけど、あるいは「あの人、本当にひどいね」っていう批判の対象になると思うんだけど、そうじゃないんです。つまりその人こそが、もっとも救われなきゃいけない人なんです。つまり最も苦しい人なんだね。苦しいから、怒るんです。これは一つの法則なんです。苦しいから怒る。苦しいから怒るってどういう意味かって言うと、苦しいんです。苦しいからこの苦しみを、どっかにやっちゃいたいっていう気持ちがあるんだね。でもまだ菩提心とかと縁がないから、「うわ! どっかやっちゃいたい!」と。「あんたもらって!」と(笑)。これが怒りなんです。
 だってそうでしょ? 怒りっていうのは、怒った方がすっきりするでしょ? 例えばわたしがHさんに「ウワーッ!」って怒ったら、わたしは「ああ、言いたいこと言ってすっきりした」と。でもHさんは「あ、なんか今苦しいこと言われちゃった」と。「ああ……」ってなるよね? つまり苦しみが移動してるわけです。つまり、「おれの苦しみ誰かもらえ!」と。「ほら!」と。これが怒りなんです。つまり逆の言い方をすると、そんなことをしないではいられないぐらい苦しいんです、その人っていうのは。つまり怒りでいっぱいの人、憎しみでいっぱいの人っていうのは、本当にかわいそうな人なんです。なんとかしてあげなきゃいけない人なんです。だから、そういう気持ちで見なきゃいけない。
 でも、「ああ、あんた、本当に苦しいんだね」と言っても、相手は「うるせえ、お前!」(笑)

(一同笑)

「お前、何言ってんの? 馬鹿じゃねえの! ワー!」ってくるわけです。何を言われても何を攻撃されても、「本当にあなたかわいそうだ」という気持ちになんなきゃいけないんだね。
 これは怒りじゃなくてもそうですよ。みんな、いろんなかたちで苦しんでる。だからそれを哀れまなきゃいけない。表面的な、彼らがやってくる、周りがやってくるようないろんな、自分に対するね、悪いものにとらわれないで、それはすべて当たり前のことなんだと。もうそれは、最初から計算済みっていうか、最初から分かり切ってることなんだね。そういう気持ちで、まあ菩薩っていうのは周りと接さなきゃいけない。
 もう一回言うけど、実際に自分が、例えば救おうと思った人には当然そうなんだけど、そうじゃない、関係のないね、普通の日常生活でも、そういう目で見なきゃいけないんですよ。日常生活で、今言ったように、例えば誰かすごい怒ってくる人とかいたとしたら、「あいつはひどい奴だ!」じゃなくて、「あの人はかわいそうだ」って見なきゃいけない。これはだから、ちょっとこう皮肉で言ってるんじゃないんですよ。本当にかわいそうだって思わなきゃいけない。「本当に苦しいだろうな」――だってさ、考えてみてください。みんなみたいに修行してるとね、心が安定してるときっていうのは、怒りなんて出ないでしょ? つまり、非常に平安な、「憎しみとか怒りって、何ですか、それ?」っていう(笑)、その平安な状態がある。じゃなくて、いつも怒ってる人の精神状態を考えてみてください。つまり、相当苦しいんです。相当不安定で苦しい状態がある。だからそれは、何度も言うけども、攻撃の対象ではなくて、哀れみの対象なんだね。そういうふうに見なきゃいけない。
 はい。じゃあ最後。

【本文】

 ダラニーシュワララージャパリプリッチャー(ダラニ自在王問経)には、こう説かれている。

「ああ、これらの衆生は、大いなる輪廻の奴隷である。すなわち、彼らは妻や夫や子供に愛著し、自由がなく、自己を向上させない人たちである。
 そのような彼らを、自由で、自己の向上を喜ぶところに赴くようにさせるために、彼らに法を説こうとして、衆生に菩薩の大悲を起こすのである。」

 はい。まあこれはこのままですね。読んだ通り、今回のまとめみたいな感じですね。

 じゃあちょっとだいぶ時間が過ぎたので、最後にもし質問があったら聞いてね、今日は終わりにしましょう。はい。何か質問ある人いますか? 特にないかな? はい。じゃあ終わりましょう。

(一同)ありがとうございました。 

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