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2-1:生起次第


2:本行

 
2-1:生起次第

 生起次第を修習することは、世俗のシッディを成就するためには必要であるけれども、最高のシッディ(悟り・解脱)を成就するためには必要ではない、という誤った考え方が、チベットのある流儀には見られる。
 しかし、ミラレ―パも、
「明智である心の技を訓練するために、道である生起と究竟の二つに努力をしなさい」
とおっしゃられているし、偉大な他のグル方も、両方の次第を修習すべきであると御主張されている。
 よって、究竟次第の前に生起次第を学習するべきである。

 生起次第の直接的な必要性は、究竟次第の悟りを完全に生じるための心の連続体を、よく成熟させることである。
 ヤブ・ユムの一対のイダムのヨーガを修習し、先に生起次第のサマディを堅固に得たならば、究竟次第の修習の場合に、誤りは少ない。はじめから究竟次第だけで十分とするのは、タントラ部の意図ではない。

 では、どのように修習するのか。
 このナーローの六法のタントラの流儀を受け継いだある者たちは、この道の基盤はチャンダーリーの火であり、それはまた主に「ヘーヴァジュラ・タントラ」によっているから、そのタントラに説かれているヘーヴァジュラの四部族のいずれか一つを修習するとよいと御主張されている。
 また、この流儀の先代のグルたちには、サンヴァラを修習する者も多い。ガンポパ、パクモ・ドッパ、チョジェ・ディ・クン・パなどがそうである。
 また、この三人はともにルーイパ流のチャクラサンヴァラ六十二尊曼陀羅にもよっている。
 そのように二つの流儀があるけれども、このチャンダーリーの火はチャクラサンヴァラとヘーヴァジュラの二つともに共通の道であるから、生起次第はその二つのいずれを行なってもよい。

 生起次第において体験を実現するためには、はじめに心を散乱せずに正念する。
 心が静まったならば、観想を始める。
 イダムが多面多臂であるならば、他の面と臂を観想することはしばらくはせずに、まずは一面二臂を心にとどめて修習する。

 (1)様相を修習すること

 そのイダムの様相を上から、あるいは下から順に、身体の粗雑な部分から明らかに思い浮かべて、その部分に対して緊張も緩和もない適度な心一竟で集中する。
 修習の対象以外のどんな様相が現れても、それに従わず、はじめの対象に心を安置する。
 対象が明らかでなくなったなら、再び明らかに思い浮かべて観想する。
 様相が明らかになるまで修習する。目で見る物よりもきわめて明らかなくらいに観想し、また、愚鈍と興奮を離れて実習を続けることが必要である。
 イダムの身体の粗雑な部分についてそのようにしてから、他の面臂と装飾等の微細な部分についても、同様に完全に現われるように修習する。
 それからその上にユムを加え、同じように観想する。それから眷属の他のイダムも観想し、最後には、すべてのイダムと、そのよりどころである宮殿の諸々の様相を一緒に、微細・粗大のすべての様相を明らかに現わし、心一竟に住することが必要である。

 (2)誇りを修習すること

 自分がイダムであるという自負を生起させ、心一竟に住する。
 その力がもし弱まったら、イダムの自負を生起させて、それに心を安置する。
 そのようにして、はじめは偽りの自負によって観想するのであるが、あるときからイダムとしての自負が堅くなり、偽りでない自負に移ることができるようになる。そのような自負を、実習のはじめから終わりまで保つべきである。
 イダムの顕現と自負の二つの観想は、はじめは交互にはぐくむ。そして最後には、自分の意識において普通の顕現を現わすことなどできない、という自負により、優れた顕現だけが現われるようになり、普通の顕現を意識において浄化することができるようになる。
 また、偽りでない自負に移ることができるならば、普通に思ったことを意識において浄化することができるのである。

 それから瞑想を終えて、日常生活において現われるすべての顕現に対しても、すべてはイダムとその宮殿であると見て、その本質として現われる堅固なサマーディを生じさせ、すべてのあらわれを浄化していく。

 「勝楽生」の中に、
「三界の自性である宮殿。そこにいる生き物は曼陀羅の神々である。」
と説かれており、アーリヤデーヴァもまた、
「これら種々のものを曼陀羅の輪として理解してください。そうするならば、心はいつ、どこに迷乱するというのか。」
と述べられている。

 このマントラヤーナにおいては、いかなるものが現われてもそれはイダムの輪であり、経験は大楽である。そして分別は不生であるという捺印を押すことが必要である。
 プラーナが中央脈管に入ることによって生じる究竟次第の大楽はこの場合にはないけれども、ヤブ・ユムそのもののような明らかな現われをきわめて堅固に得ることによって、方便と智慧を合一させ、パット字によってボーディチッタが外に漏れることを防ぐことから生じる生起次第の大楽が、実際に多くあることも理解する必要がある。

 これが、曼陀羅の輪の生起次第の修習によって心の連続体を成熟させることの要点である。

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