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「苦しみの真理」

◎苦しみの真理

 だからお釈迦様が悟りを開いて一番最初に言ったのが、「人生は苦ですよ」と。
 私ね、小学校時代に「マンガ四聖諦」っていうのを読んで、なんかお父さんが買ってきて、「マンガ四聖諦? なんじゃこりゃ?」と思って。で、その中で「お釈迦様がお悟りになって一番最初、弟子に言いました」と。で、私そのとき興味津々でね、「え? 悟りってなんだ?」と。「一体お釈迦様は何を言ったんだ?」って思って読んだ、「この世は苦しみである」とか書いてあって、「え? 何それ?」「それが悟り?」って思ったんだけど。
 まあ、だからちょっと仏教って陰気臭い宗教に聞こえるわけだけど。でもそれはね、だんだん修行してて分かってきた。それが分かること自体がもう悟りなんです。つまり普通の人は苦だってことさえ分かってない。それが分かるだけでももう相当、完全とはいわないけども、無明が晴れてきている。
 ちょうどそれはね、肉体の苦痛の反応とも似ている。どういうことかっていうと、人間の体って、動物もそうだけど、痛みを感じる能力がある。これは能力です。何で能力かっていうと、つまり「肉体のどこかが損傷されたぞ」と。「ここままじゃまずいぞ」と。「このままだと腐るぞ」とか、あるいは「炎症をおこしてこのままだと肉体が機能不全になるぞ」と。それを知らせるために痛みっていうシグナルがくるわけだね。つまりわれわれにこの痛みっていう機能がなかったら、知らないうちに病気になってたり、あるいは怪我が発展して腐ってしまうかもしれない。だから修行っていうのは――ちょっと話がずれるけども、修行のデメリットってあって、痛みに強くなるから、私もあんまり慣れないとき――慣れないときっていうか、修行が進んできてその状態にあまり慣れてないときによくあったのが、――まあこれは地獄のカルマの浄化だったと思うんだけど、歩いてるとよくね、どこかにぶつけて、足を切るんです、何気なく。で、かなり深く切るんだね。かなり深く切って、ドバーッて血が流れてるんだけど、痛みに強くなってるから、「なんかちょと痒いな」くらいで、普通に歩いてて、みんなに「どうしたんですかそれ?」って言われて、「え?」って見たらものすごい傷になってたりして。それはまあちょっと話がずれたけども、修行してると痛みに強くなっちゃうから、逆にそういう危険もあるわけだけど。普通の場合ね、痛みを感じられるっていうのは、人間としての素晴らしい能力だと。
 それと全く同じ発想で、魂が――一応魂って言葉を使うけども、われわれの本質がどんどん至福の状態から転がり落ちて、今ものすごい危険な状態にいると。もうグジャグジャの邪悪な要素が身について、本来の至福の状態からいったらもう最悪の状態。「このままでいくともう、地獄にさえ落ちかねないようなドロドロの状態にあるぞ」っていうシグナルとして、賢者は苦しみを感じるんです。つまり、「なんかこの世はおかしいんじゃない?」と。苦しみを感じるはずなんです。それはお釈迦様がそうだったようにね。
 お釈迦様はああいう王子様として生まれながら、この世に苦を感じて修行の道に入った。これはもう能力なんだね。智慧っていうか。
 だから、「いや、私はお釈迦様がそう言ってるけど僕は別に苦しくないよ」って言うのは、その人は徳があって苦しくないんじゃなくて、智慧がないから苦しくない。だからそれがここに書いてあることなんだね。つまり無明に入ってしまってると、もう何が何だか分からない。あるいは正統的な評価ができないから、この世の苦っていうのが分からない。分からないから当然、「ここから抜け出して修行したいんだ」っていう発想にも至れない。っていうのがここのところだね。非常に仏教的な考え方ですね。

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