11月11日 合宿勉強会より
◎なんでも供養すること
(R)例えば何かもらったりとか、徳を使ったり、漏らしてしまったら、どうしたらいいですか?
(松川)どうしたらいいか?
(R)そこで、それはもう起きてしまったことだから……
(松川)それはね、いくつか道があるけど、最高の道は「供養」です。心の中でいいからね、何でもかんでも、もう何でもかんでも供養すればいい。
例えば、生き方としては二つある。二つっていうか、もちろん色々あるわけだけど。例えばT君みたいに頭陀的に「おれは一切徳を減らさない」と。「毎日チャパティでいいんだ」と。確かに毎日チャパティだったら徳は減らないかもしれない。そういう道か、もしくはそうじゃなくて――例えばRさんにね、「うまいものやめろ」って言っても無理かもしれない。「それはじゃあ、それでいいですよ」と。そこでストレスになって修行できないぐらいだったら。
私ももちろんそうだけどね。私ももともと、あまり食欲を無理にぶち破ろうと思ったことはなかったんです。「食って頑張るか」という感じ(笑)。
ただその場合、そこで生じた味覚の喜びとかを全て供養するんです。「これは仏陀や神に捧げます」と。「あ、うまい」と。「このうまさを捧げます」と。これやってると段々段々味覚が薄れてくる。で、味覚とは違う喜びが出てくる。
これをあらゆることに対してやるんです。例えば道を歩いていて、「綺麗な景色だ」と。「捧げます」と。あるいは服を買ったりもらったりしたら、「これは私が着る前に全部捧げます」と。「そのお下がりを私は着るんだ」と――という感覚だね。
◎どの道を選ぶのがよいか
だからといって、じゃあ何をやってもいいのか、というと、そうじゃないよ。もちろんある程度は自分で節制をして、徳を漏らさないような生活をして――だからといって現代では、あまりかたくなになる必要もないと思うね。
例えば会社とかでね、誰かが「はい、おすそ分けよ」と言って何かくれたときに、「あなた私の徳を減らすんですか!」とか言ったら(笑)、ただの皆からの嫌われ者になってしまう。
逆に言えば、発想としては、例えば誰かにもらいましたと。じゃあそれを私が神に供養しましょうと。あるいは、物によってはカイラスに持って来てもいいけども。そうすると、その、くれた人の徳が倍増するわけです。その人は神に供養するとかいう発想はなかったんだけども、Rさんがもらってそれを「あの人の徳になるように」って神に供養するイメージをしたら、Rさんの徳もちょっとは減るかも知れないけど、その人がちょっと結び付けられるわけだね、神とか仏陀と。そういう発想もできる。
そうじゃなくて、「あ、あなた徳が分かっていませんね」と。「私要りませんよ」とかやってたら――それはそれでいいんだけどね、いいんだけど、ちょっと大乗的じゃないね(笑)。だからといって、もらいまくるのもどうかと思うけど(笑)。その辺はだから中庸が大事なんでしょうね。その辺はだから智慧が必要だね。一番自分にとってどの道を選ぶのがいいのかと。
◎後悔をしない
あともう一つ、ポイントとしては、懺悔はしてもいいが、後悔はしないほうがいい。終わったことに関しては、悪かったことにすぱっと懺悔したらいいけど、あとはそれをどう徳に結び付けられるかということを考えたほうがいい。
もらってしまったものを「ああ、おれはまた徳をすり減らした」とか考えるんじゃなくて、「あ、そうか」と。「もうじゃあ、徹底的にこれを供養しよう」と。「これによってあの人の徳にもなりますように」と。そう考えたらいいと思うね。
◎決意の重要性
あとはさっき言った、日ごろから何を考えているかです。日ごろから「私は悟りたいんだ」とか「衆生の悟りの手助けをしたいんだ」と考えていたら、表面上現世的なことが起こるけど、全部そっちに結びつきます。
だからさっき言ったように、表面上誰かが何かをくれたと。これは一見、ただくれただけなんだけど、ここでRさんがそれを供養したりすることによって、その人が目覚めるチャンスなのかもしれない。
人間て結局ね、心の方向に向かうんです、すべて。だから最初に決意とか、思念が一番大事だっていうんだね。
だからいつも言うように、「え? でも私、解脱願っているんですけど、まだ解脱していません」と――それは願ってないんです。願う割合が少ないんです。多くの他のことを願っているから、そっちのほうにばかり現象が動いているんだね。
だから自分の中の思念、決意や心の方向性の100%は難しいとしても、かなりの部分を自分の悟りとか、あるいは衆生の救済に向けるんだね。それが一番大事な、というかな――最初に必要な、修行者の心構え。まあ、修行というのは、何か一個あったらOKという話なんだけど、この決意でも完璧に出来れば、もうOKです。だってそれで心がそっちに向かったら、全ては自動的に整ってくる。
よく仏教では、「意楽」っていうんだよね。意楽って難しい――覚えなくてもいいけども、意識の意に楽って書いて「いぎょう」って言うんだけど。これはあの――仏教ってね、仏教用語って無駄に難しいんだね。言っていることは別に簡単なのに、言葉が難しいから。だって「意楽しなさい」とかお坊さんがやってきて言われたらね、「また難しいこと言われた」と思って、「あーよくわかんないな」とかなるけど、「悟ることを決意しなさい」って言われたら、分かりやすいじゃないですか。
仏教読みってすごく特殊なんですよ。経行だってそうでしょ。経ってかいて行ってかいて、何でこれで「きんひん」なのと(笑)。読み方がちょっと特殊なんだね。だからそれは一つの読み方だから、必ずしもその通り読む必要はないけどね。
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