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「解説『スートラ・サムッチャヤ』」第九回(5)

◎異性への愛欲のデメリット③――聖なるものが意識から消える

 次に三番目。実はこの――まあ今言ったのは二つともエネルギー的な問題ですけども、三番目が一番本当は大事なのかもしれない。この三番目は何かっていうと、意識の問題です。意識の問題っていうのは、これはまあだいたい性的なものとか、あるいは恋愛とかにはまった人っていうのは分かると思うけども、つまり頭がそれでいっぱいになる。頭がそれでいっぱいになることによって――まあつまり、われわれの頭から、逆に言うと、神とか、あるいは真理とか、あるいは求道心とか、そういったものが吹っ飛んでしまうんだね。で、この力っていうのは、その、やっぱりこのスワーディシュターナ、恋愛的なのが一番強い。ほかのもので頭がいっぱいになることももちろんあると思うよ。例えば食べ物とかね。あるいはお金とか。あるいは憎しみの対象とかね。それは人によってひっかかる部分って結構違うと思う。例えば憎しみが強い人は、恨む相手で頭がいっぱいになるっていうのは当然あると思うよね。あるいは貪りが強い人は、お金とか、自分が欲しい物質で頭がいっぱいになるっていうことも当然あるかもしれないけども。でも恋愛的なもの、もしくは性的なもの、あるいはね、そこから派生する嫉妬とかね。恋愛的な感情、性的な性欲、あるいはそこから派生する嫉妬心、これはもう心をそれでいっぱいにします。つまり逆に言うと、神聖なるもの、神なるものから心が全然持ってかれてしまうんだね。
 で、これはとても怖い。何が怖いかというと、これも何度か言ってるけどさ、まあ逆に言うとね、なぜわれわれは「常に神を思え」とか、「二十四時間神から心を離すな」っていうふうに言われるのかっていうとね、われわれは、単純に言うと――これも仏教でもヨーガでもいってますが、心で思ったものになるんです。簡単に言うとね。心で思ったものになる。
 これはさ、ある経典に書かれてるんだけど、まあ経典っていうか『バーガヴァタ・プラーナ』ね。ヒンドゥー教の有名な聖典『バーガヴァタム』の中にあるんですが。ある王様がね、ある女性をすごい溺愛してて。ものすごい溺愛してて、超溺愛してて、で、ただ最後は戦争かなんかで死んでしまうんだね。死んでしまうんだけど、その恋人に対する溺愛がすごかったんで、それを超思いながら死んじゃったので、次の生、その恋人とそっくりの女性として生まれちゃったんだね。これは非常に怖い話であって。まあこれはちょっと特殊な例かもしれないけどね。皆さんがそういったのにはまったからって恋人と似たように生まれるって言ってるわけじゃないんだけど。つまり同じ世界、同じその領域に引っ張りこまれるんです。
 これはよく言われるように、脳波の研究とかで言うと、夫婦の脳っていうのは似るっていうんだね。脳波ね。夫婦の脳波は似てくるんです。あるいはまあよくいわれるように、夫婦の顔って似てくるよね? つまりカルマがこう混ざってくるんです。それは、もちろん一緒にいるだけじゃ混ざんないよ。なんで混ざるのかっていうと、当然集中してるからです。常に例えば旦那さんのことを考えてる。常に奥さんのことを考えてる。当然脳波が混ざり合い――現代的に言うとね。実際には脳波っていうよりはアストラルの世界が混ざり合い――アストラルっていうのはさ、いつも言うように曖昧な海みたいなものだから。曖昧な海っていうのは、例えば、そうだな、日本海と太平洋――日本海と太平洋って違うわけだけど、でもその混ざってるとこがあるとしたら――あれ? 日本海と太平洋って接触してるよね? ちょっとはね。その接触してるところ、どっからどこまでが日本海なんだって言いづらいですよね。なんとなくこのエリアを日本海って言ってるだけで。あるいは太平洋と言ってるだけで。同じように広大なアストラル空間があって、そのある一部をわれわれは、「わたしの心」と言ってる。あるいは例えばY君だったら、「Y君の心」と言ってると。で、これが一部混ざり合ったりする。で、それがものすごく集中してると、ものすごく混ざり合うんです。で、こっちが例えば相手にものすごい集中した場合ね、当然その相手の世界に引きずり込まれるようなかたちで混ざり合います。で、もちろん相手が聖者だったらかまわないかもしれないけど、普通はそうじゃないから。それによって相手の持ってる煩悩であるとか、相手の持ってるカルマであるとかと自分が混ざり合ってしまうんだね。これは非常に恐ろしいことであって。まあだから「逆グルヨーガ」みたいな。ね(笑)。

(一同笑)

 例えば、だから逆に言うと、グルヨーガとかバクティヨーガの狙いはそこにあるんです。つまり「ひたすらグルだけを思え」とかね。あるいは「ひたすら神だけ思え」っていうのは、つまりその対象が完全に聖なるものだったら、完全集中することによって、それをもらっちゃうことができるんだね。まあはっきり言えば努力なしに、その全集中だけでグルや神が持ってる世界をいただけると。これがバクティとかグルヨーガの秘儀なんだね。
 でも実際にはそれができるかって問題がある。つまり頭の中、普段はいろんなことを、いろんなカルマに応じた、いろんなことをいっぱい考えてて、ああだこうだ考えてて、で、たまに神を思うと。たまにグルを思うと。これじゃ駄目なんだね。あと義務的でも駄目です。義務的でもっていうのは、「なんかそう言われたから、ああ神、神ってやろうかな」じゃ駄目です。まさにさっきのバラタみたいに、「ああ! 神よ!」と。あるいは「グルよ!」と。あるいは「聖なるものよ!」と。もう心から、こう湧き上がる欲求っていうか。まあつまり欲求だね、一つの。聖なる欲求です。聖なる欲求を――あるいはラーマクリシュナが言うように、「自分の心のエネルギーのすべて、方向性、ベクトルすべてを神に向けなさい」と。これができることによって、さっきから言ってる言い方でいうと、われわれの世界とその神の世界が混じり合うんだね。混じり合うことによってわれわれはそれに近付いていく。あるいは最も純粋な神の道具っていうかな。神がわれわれに課してるわれわれの人生っていうかな、使命っていうものに純粋に生きることができるようになる。これがバクティヨーガ、あるいはグルヨーガとかの目的なんだね。
 だからまさに最新の「あなたの愛に」の歌でもあるように、「心があなたでいっぱいなのです」と。「何を見てもあなたに見える」と。こういう感じを神や聖なるものに向けなきゃいけないんだね。それによって初めてわれわれの人生っていうのは、まあ祝福されるっていうよりは、まっとうなものになる。

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