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解説・ナーローの生涯(6)

◎最初の試練

 はい、で、その最初の試練が、グロテスクな姿をした病気の女がいると。で、それをナーローは同情を寄せつつも、鼻をつまんで、女の上を跳び越すと。言ってみれば別にナーローはただそれだけだったんだけど、そこでその女がね、虹の光を放って空に舞い上がりこう言いましたと。
「究極の実在の中では一切が同一になり、それは習慣を生み出す思考や限界から解放されている。そうした思考や限界にまだ束縛されているのなら、どうしてグルを見つけることができようか」
と。
 はい、これはこういう形で一つの試練というか、師と気づかなきゃいけないのに気づけないっていう現象が起きて、そのために師はナーローに教訓的な言葉を述べていくんだね。こういう感じでナーローの最後のというかな、ちょっと残っているけがれみたいなものを修正させられてるって考えたらいいね。
 はい、だからこの物語っていうのは本当に、この教えもそうだし全体もそうだけど、本当に何度も言うけど(笑)、桁外れの人の話なので、ちょっと難しいかもしれないね。うん。でも頑張って本質っていうかな、利益のある部分をちょっと学んでいきたいと思います。
 はい、じゃあちょっとこの言葉についてちょっと見てみましょうね。

「究極の実在の中では一切が同一になり、それは習慣を生み出す思考や限界から解放されている。そうした思考や限界にまだ束縛されているのなら、どうしてグルを見つけることができようか」

と。
 はい、究極の実在、これはさっき言った例えばダルマカーヤ、あるいはダルマターとかダルマダートゥとかいろいろ言葉がありますが、その中では――ヨーガ的にいうならば、いわゆるわれわれが真我に到達し、あるいは最終的に至高者に溶け込んだような状態なわけだけども、その中では一切は一つですよと。何の区別も何の特徴もないっていうかな、一切が一つに溶け込んでいる。
 はい、じゃなくてわれわれの今の状態っていうのはそうじゃなくて、その究極の実在で生きてるんじゃなくて、ここの言葉でいうと「習慣を生みだす思考」によってできていると。つまりこれはいつも言ってる経験からくる習性ってやつです。経験から来る習性ね。
 つまりこれは単純な話なんだけどね、つまりもう一回言いますよ、本来はわれわれはすべてが同一である完全な悟りの世界にいるはずなんです。今この瞬間もね。しかしわれわれはありのままにこの世を見るならば、すべてが同一である究極の悟りっていうのがこの瞬間瞬間現われてるんだけど、じゃなくて、われわれはそれを取らずに自分の経験からくるレッテルの方を常に取り続けてるんだね。これがわれわれの今の状態ですよと。
 ちょっと難しいよね。でも難しくないでしょ? いつも勉強会で言ってるような話なんで――つまり、いつも言うように「レッテル」です。つまりわれわれが何かを経験しましたと。で、われわれが経験したその過去の情報に基づいて、今目の前にある何かを判断する。あるいは、ある状況になったならば絶対にこういう思考をするとか、こういうこと言うとか、こういうイメージをするとかいうその習慣が完全に出来上がってしまってる。これは仏教用語では習気(じっけ)っていうんですが、習気とか薫習とかいうね。
 薫習っていうのは、いつも言うように、お香をね、バーッて炊いてその上に布をこうしばらく置いておくと。これによって布にお香の臭いが染み付くわけだね。それをものすごくたくさんやると、もう洗っても匂いが取れないと。完全にお香が染み付いちゃったと。これを薫習っていうんですが、こういう形でわれわれは、過去のいろんな経験やいろんな訓練っていうかな、いろんなことをひたすらやったことによって、われわれの物の見方やあるいは行動パターンが、完全にもう習慣化してしまってるんだね。習性となっている。で、それで見てるので、全くありのままに見てないっていうことです。
 これはすべてに行き渡る話なんだけど、でも小さなことではみなさん多分理解できると思うんだね。小さなことっていうのは、例えば子供の顔見ると怒るのが習性になってると。ね。別に悪いことやってないんだけど、悪いことやってないんだけど、顔見ると「また! お前は!」「母ちゃん、何もやってないよ!」と(笑)。「今日は別に何もやってないよ」と。でも顔見るとアーッと怒ると。これは習性だよね。もしかすると、確かに昨日までは悪ガキだったが、今日はいい子かもしれない。今日はお母さんのために、例えば、今日誕生日だからと思って後ろにカーネーションでも隠して来たかもしれない。そしたらお母さんが、「お前またたくらんでるだろ!」と、「あっちいけ!」って言うかもしれない。そしたら子供は傷つくよね(笑)。「え? 花持ってきたのに……」と。まあこれは日常的な例だけど、こういう小っちゃな例ってよくあるよね。つまり一つの習慣的な見方によって、真実を見誤まってしまうっていうか。
 で、それが、そういった一つ一つの小さな例だけではなくて、全体に渡ってそうなんだと。われわれは根っこから、完全にベースからこの世を見誤ってるんだね。すべてただの習慣によって見てる。その習慣っていう、あるいはレッテルっていうシステムを打ち砕かない限り、われわれは――ここに書いてある究極の実在ね、一切が溶け込んで一つである究極の実在には目覚めることはできないんだね。
 はい、だからここでいうと、つまりナーローが、病気でグロテスクな、おそらく例えばハンセン病とかで体が腐ってるとか、そういうグロテスクな状態に対するいわゆる分別があったんだね、まだね。つまり、ああ、あれは気持ち悪いとか、まあ可哀そうだけどちょっと気持ち悪いと。で、ちょっとこう鼻をつまんで――つまり臭いのは嫌だと。鼻をつまんで、それを飛び越えるっていうことをやったわけだね。まあこれ自体はそんなに責められることではない。多くの人がそういうふうにやるかもしれない。しかしそれは、ティローパの目から見ると、非常に大きな障害だったんだね。ナーローの持ってる大きなまだ乗り越えなきゃいけない障害だった。
 言ってみればこれは、嫌悪だね。ナーローがまだ――もちろんわれわれよりはナーローっていうのは嫌悪とか少なかっただろうけど、まだ小さな嫌悪があった。つまりこれはわたしにとって排除すべきものであると。これはわたしにとって受け入れられないものであるっていう小さな気持ちですね。
 例えばさ、ここでこの病気の女性が、ナーローに助けを求めてきたとしたらですよ、おそらくそれは助けてあげたでしょう。例えば「もう痛くてしょうがないので、ちょっと包帯巻き直してください」とか言ったら、おそらくナーローは優しく巻き直してあげたでしょう。そういうことはもちろんするわけです。しかしそんなことはもう当たり前の話であって。じゃなくて、本当の心の根っこの根っこの問題で、その「ウッ」ていう気持ちっていうかな、を言ってるんだね。だからすごくここは厳しいことを言ってるわけですね。だからほんの瞬間でももし、例えば病気でグロテスクな感じの患者を見て、ほんの一瞬でもウッとなるとしたらもう駄目なんです。それは乗り越えなきゃいけない小さなけがれがまだ残ってるということなわけだね。

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