解説・アーナンダマイー・マーの教え(8)「神との遊戯」
◎神との遊戯
【本文】
七.これまでにあなたが経験してきたすべての喜びと悲しみは、あなた自身の心の投影に過ぎず、それらはすべて矢が飛び去ったような束の間のものでした。しかしあなたが常に神とともに遊戯(リーラー)するならば、それは永遠の平和と幸せをもたらします。それを常に覚えていてください。
八.彼と遊戯するために、あなたの心に、彼と自分をつなぐロープを確立してください。彼の御姿、性質、恩恵および美しさなど、聖典に説かれていることを学び、歓喜してください。
これはね、『入菩提行論』にも同じようなことが書かれていますが、われわれが今まで経験してきたすべての喜びや悲しみ、それは心の投影であり、そして、なんでもそうだけど、終わってみれば束の間のものだと。なんでもそうだよね。振り返ると、すべては一瞬だと。「ああ、八十年生きたな」――振り返ったらそれは、思い出に過ぎない。
わたし前よく思ったけどね、例えば八十年生きたとして、振り返ってみて、思い出に過ぎない。思い出ってことは、記憶なんですよ。記憶ってことは、想像だよね。想像っていうのはつまり、フィーリングっていうか、頭の中のイメージに過ぎない――ってことは、本当はそれはなかったのかもしれない(笑)。つまり、われわれが妄想することと、過去を想起することと、あんまり違わないんじゃないかと。実体がないから、どちらもね。
で、実際そういうことってあるよね。本当はなかったことをあったかのように――みんなはどうか分からないけど、わたしもよくそういうことあったんです。例えば、「一年前にこういうことがあった」って思い込んでる。でもそれは、そんなのなかった。あったらいいなって思ってるうちに、あったことになってたりするんだよね(笑)、自分の中で(笑)。でも、どう考えても現実的に考えても、「え? そんなことなかった」と(笑)。そういうのってあるよね。で、そう考えると、終わったことっていうのは、本当にもうなんの価値もないっていうかな。
しかしですよ、怖いのは――『入菩提行論』にも書いてあるけれども――怖いのは、カルマは残るんです。われわれが過去に成したことによって作ってしまったカルマは背負わなきゃいけない。『入菩提行論』の表現だと――今まで多くの愛しい者、憎らしい者がわたしの前を過ぎ去っていったと。で、その愛しい者や、憎らしい者のためにわたしは多くの罪悪を犯したと。つまり、愛するものを得るために嘘をついたり、騙したり。あるいは、悪業を積んだと。あるいは、憎らしい者を倒したいために、悪口を言ったり、策略をしたりいろんなことをやってきたと。そのときは、一生懸命目の前の愛する人や憎らしい者のためにやってきたんだけど、今や誰もいませんと。わたしがその人のために一生懸命頑張った、愛する者や憎らしい者は誰もいませんと。しかし、彼らのために作った恐ろしい罪悪だけが残っていると。
これがわれわれの、この輪廻の世の悲しさだね。何も残らない。
しかし、「あなたが常に神と共にリーラーするならば、それは永遠の平和と幸せをもたらします」――これは実はとても高度なことをいってるんだね。おそらくみなさんは理解できると思います。でも、この教えを普通の人に――例えばテレビで言っても、誰も多分理解できません(笑)。
つまり何を言いたいのかというと、もともとすべてはリーラーなんです。リーラーっていうのは遊戯。つまり、お遊び。さっきゲームって言ったけど。つまり、すべては生じては消えていく、ただのゲームみたいなものなんだね。
で、さっき言った、普通の人の人生――愛する人や憎らしい人がやってきて、いろんなことをやってきたと。でも、それは今はもう何も残っていない。これも含めてゲームなんだね。でも、われわれがその神っていうものを知らない内にやってるゲームは最悪のゲームなんです(笑)。もう苦悩のゲーム(笑)。「何でそんなゲームしてるの?」っていう(笑)、苦悩のゲームなんだね。で、もしわれわれが、ゲームの遊び相手を神だと知るならば、神と共に遊ぶならば、最高のゲームに変わる。
この間Nさんが麻雀が好きだって話を聞いたけど(笑)、Nさんはお金は賭けないみたいだけど、例えば騙されてね、麻雀で賭けさせられて、どんどんどんどん借金を作ってしまったとか、いろいろあるよね。あるいは、とんでもないインチキギャンブルに手を出して、ものすごい借金を背負わされるとか。で、拷問を受けるとか、いろいろあるかもしれない。それはもう最悪のゲームだね。それは、はっきり言って遊び相手を間違えてる(笑)。まあ大体ギャンブルっていうのは負けるようにできてると思うけどね、わたしはね。でないと成立しないから(笑)。もちろん一部の人は勝つんだろうけど、多くの人が負けてくれないと成立しない。でもそれに気づかずにはまっていって、どんどん借金を作ってしまう。
じゃなくて、遊び相手を正しく見つけなさいと。つまりこれはさっきも言ったけど、この世の中は無常であって、いろんな心配事も来ますよ。喜びと悲しみが連鎖してますよ。これは誰にとってもそうなんです。しかし、このゲームの遊び相手を神とするならば、そこには永遠の幸せがあるんです。
永遠の幸せっていうのはどういうことかっていうと、「こうなったからラッキー、こうなったらおれは駄目だった」じゃなくて、ゲームをやってることそのものが至福になるんだね。このゲームの全体性そのものが喜びになる。だから永遠の喜びなんです。
つまり、条件によらない。ゲームをやってること自体が至福になってしまう。それには、われわれがしっかりと神と共にリーラーをするというような条件がなきゃいけない。
じゃあ、それにはどうするんだっていうのが次に書かれていて、それには、彼と――つまり神ね。神と自分を繋ぐロープをしっかりと確立しなきゃいけないと。つまり、そうじゃないと神と遊ぶことにはならない。で、彼の御姿、性質、恩恵および美しさなど聖典に説かれていること――これはさっき言ったように、『バガヴァッド・ギーター』とかに書かれている至高なる存在、あるいは聖者などによって説かれたそういった教えをしっかりと学び歓喜してくださいと。つまり具体的にいうと、みなさんの場合、例えば『バガヴァッド・ギーター』とか、あるいはその解説書。あるいはそうですね、さっき言ったミラバイの教えとか、あるいはラーマクリシュナ系統の教え。そういったものっていうのは大体バクティのすばらしさ、つまり至高なる唯一の存在を見出すことの素晴らしさっていうのがよく書かれてる。で、そういう教えをしっかり学んで、まあまずはフィーリング的に「あ、そういうことなのか」っていうのを理解して、で、それを忘れないようにする。で、すべての人生の自分の選択であるとか、あるいはいろんな考え方を、そこに照準を合わせるんだね。そういう目ですべてのものを見ていく。そうすると、だんだんだんだん、神とお遊戯するっていう意味が、だんだん分かってきます。