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「食事について」

◎食事について

【本文】
 食事は薬のようであると知って、むさぼることなく、また怒ることなく食をとるべきです。食事は強壮のためでも、誇りのためでも、太るためのものでもなく、ただ身体を保つためだけのものです。

 今度はいきなり食事の話ですね。
 「食事は薬のようである」――よく医食同源というけども、「むさぼることなく、また怒ることなく食をとるべきです」と。つまり最後にあるように、食事というのはただ身体を保つためだけのものだと。食事を取らなかったら死んでしまう。最近食事をとらないっていう人がいるみたいだけど、それはそれで生きていけるんだったら別にいいんだけども、普通は食事をとらないと死んでしまう。だから生命を保つためにだけ食事はあるんだよと。
 「むさぼることなく」というのは、生命を保てるだけとれればいいわけだから、「まだ足りない。もっと食いたい」とか「あれも食いたい。これも食いたい」――これは駄目だと。
 お釈迦様の時代というのは托鉢修行だったんだね。托鉢修行というのは、托鉢を持って――現代でもタイとか托鉢やってるところはあるけど――まあ、K君もインドで托鉢やったみたいだけど(笑)。K君はインドの上座部仏教で一時出家して、そこではまず朝食を食べて、その後に托鉢行ったんだよね?

(K)そうです(笑)。

 だから今は一つの儀式として残ってるんだろうけど、じゃなくて昔は托鉢だけが食事だったんです。しかも午前中だけって限定されていた。午前中托鉢を持ってうろうろして、もし誰もくれなかったら終わりなんです。つまりその日は食事抜きと。それからもらった場合は自分の嫌いな物であろうと、好きな物であろうと、何であろうと選り好みせずに食べなければいけない。
 だから托鉢に行ったら、「お! 今日は大好きなチキンカレーが入ってた」と。「やったー!」そして次の日に托鉢に行ったら、「お! 今日はおれの嫌いなフィッシュカレーだ」と。「これはちょっとやめとこうか」って言って捨てるとかね(笑)、これは駄目だってことだね。つまりうまいから食べるとか、おなか空いてるから食べるではなくて、ただ日々体を保つためだけの理由で食べてるんだと。
 もちろんこれをどこまで追求するかは別です。これを極限に追求した人は、ラーマクリシュナの弟子のナーグ・マハーシャヤっていう人。あの人は味覚のとらわれを徹底的になくすために、全く味付けをしない。塩も使わなかったっていうんだね。塩も使わないで、一番ひどいときは米ぬかだけで生きていた(笑)。友人たちがね、それはあまりにもひどいって思って、米ぬかを隠したんだね。それで仕方なく、一切味付けしないご飯だけを食べていたと。K君はおからだけで生きてことあったよね(笑)? それはいいことだね。
 シヴァーナンダっていう人がいて、このシヴァーナンダって人も――この人は有名な多くの弟子を持つ聖者だったんだけど、最近まで生きていた人だけど――この人も食事は乾いたチャパティだけだった。この人はとても慈愛に満ちた人で、リシケシに住んでいたんだけど、リシケシっていわゆる修行者がいっぱいいて、一日一回修行者向けの配給があるんだね。修行者向けの配給で、チャパティとかヨーグルトとかビスケットとかいろいろ修行者に配られるんです。で、このシヴァーナンダっていう人は毎日その配給に行くと、他の人よりもたくさんの入れ物を持っていっぱい入れて行くんだって。で、それをよく事情を知らない人は、「あの人は本当に貪りが強い、なんてひどい人なんだ」って思うんだけど、実はそのもらったものは、リシケシの中で体が不自由な修行者とか、目が見えないとか、足が歩けないとかで、その配給に行けない修行者がいっぱいいるんだね。その人たちのところを回ってそういうものを渡していたんだね。自分のためには何をとっていたかっていうと、チャパティだけ。しかもチャパティを何日間も放っておいてるから、もうガビガビに固まってる。で、それを毎日ガンジス川に行ってガンジス川につけてふやかして食べていた(笑)。食事はそれだけだったと。
 だからこういう徹底的な味覚からの出離というか、それができるようになったらとても素晴らしいことだね。ただあまりそこに集中する必要もない。それをやることは素晴らしいけども、やってないからって別に人を非難してはいけない。それはそれぞれの道がある。

◎ものを蓄えることについて

(K)先生、質問いいですか? 前、先生のエッセイで、女の聖者の人の話の中で、食べ物を蓄えることが駄目だっていう話があって、『起源経』等でも昔は蓄えちゃ駄目だよっていう教えがあったっていう話がありましたよね? それはどうして駄目なんですか? 身体を保つために明日のご飯とかを持っておくとか、そういうことを現代的に考えると、普通のことじゃないかっていうふうに思いますよね?

 それはだから、貪りなんだね。現代的に考えると普通なんだけど、つまり現代の常識的考え方が、相当真理と外れているんだね。でもそこまでいってしまうとこれも厳しいから、別に絶対に何も蓄えるなっていうんじゃないんだけど。
 もともとの考えは、さっき言った托鉢の考えと同じで、すべてはカルマなんだと。もし明日食べ物を得られなかったら、それは自分のカルマだと。明後日も得られなかったら、それもカルマだと。で、それがしばらく続いて死んでしまったら、それはカルマだと。で、それはそうなるかもしれないし、そうならないかもしれない。明日得られるかもしれない、得られないかもしれない。それを今から心配して、「得られるかな? 得られないかな? 得られないかもしれないから今から蓄えておこう」――これが貪りだっていっているんだね。
 でもこれは何度も言うけど、現代で何も蓄えるなっていうわけじゃないよ。そうじゃないけども、この考えはベースにおいておいたらいいね。
 わたしは食物を蓄えるときと、蓄えないときがあります。普通は蓄えない。わたしね、ものすごくよくいえば、過去世の修行者だったときのカルマかもしれないけど、まあ悪くいえば貪りが強いのかもしれないけど、例えばたまに自炊をすると。一人だと、何か作り過ぎちゃうんだよね。作りすぎちゃうんだけど、全部食べるんです。何かお腹いっぱいなんだけど残したくなくて――普通なら合理的に、「これで何日間かもつな」ってなると思うけど、全部食べてしまう。そういう性質がちょっとあるんだけど。だから基本的にあまりいろんなものが残らない。でもたまに、ずーっと冷蔵庫の中に入れっぱなしとか、そういうこともあるね(笑)。だから計画的に何か残してるっていうんじゃないんだけど、忘れてるとか、面倒くさくなって残っちゃう場合っていうのはたまにあるけど。
 そうじゃなくて現代的に合理性を考えてとか――例えば、今そんなに欲しくないんだけど、明日あれが欲しくなるかもしれないからちょっと置いておこうかとか、それは貪りだっていうんだね。そうじゃなくて、常にその瞬間瞬間のカルマで生きなきゃいけない。
 ただこれは何度も言うけども、最高の修行者の理想を言っているので、現代人にそれを全部やれとは言わない。ただ頭の中の片隅に置いておいて、それをやりたい人はそうすればいいし、あるいは自分はちょっとそういう意味であまりに貪りが強すぎたかなって思った人は、ちょっとそれを抑えたらいい。

◎ただ身体を保つだけのために

 そして、「怒ることなく食をとるべきです」――怒ることなくっていうのは、「お母さん! 僕シイタケ嫌いだって言ったでしょ! 何で入ってんの?」とか(笑)、あるいは、「え? 今日もカレー? ○○君の家は昨日ステーキだったよ。何で今日もうちはカレーなの?」――これは駄目だってことだね(笑)。つまりこれは貪りの裏側にあるわけだけど、食物への執着が強すぎるために、食事に関して怒りが出ると。あるいは「遅い!」とかね。特に王様というのはそれがあったんでしょう。王様というのは召使がなんでもいうことを聞いてくれるから、「まだ食事は来ないのか」とか、「何だこの食事は!」とか、貪りによって怒りが出る。これはもちろん駄目だっていうことだね。これは王様じゃなくてもわれわれにとってもそうだね。考えなきゃいけないところですね。
 そして、「食事は強壮のためでも」――つまり、体を強くするためにとるわけでもない。
 「誇りのため」っていうのはどういうことだと思いますか?――「おれはこんなにいいもの食ってるんだ」っていうことかもしれないね。よくステータスのためにいい所に行ったりするじゃないですか。「わたしはそんな庶民的な所には行けません」と。「わたしは銀座でしか食べないんです」とかね。そういうのはあるかもしれないね。
 そういった誇りのためでもなく、「太るため」――太るためっていうのは、現代人では太るために食べたいって人はあまりいないかもしれないけど、インドっていうのは太ってた方が健康だし、金持ちの印みたいなところがあったんだね。でもそのためでもないと。
 そうじゃなくて、ただ命を、体を保つために食事はあるんですよってことですね。

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