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解説・アーナンダマイー・マーの教え(11)「あらゆる行為を捧げる」

◎あらゆる行為を捧げる

【本文】

あらゆる行為を捧げる

 人は、日常生活のあらゆる行為を、至高者にささげようとしなければなりません。

 朝起きた瞬間から、夜眠りに落ちるまで、人はこの心構えを継続しようと努力しなければなりません。

 そうすることによって、人は徐々に次のようなことを感じるようになるでしょう。
「私は、執着、怒り等の好ましくない性質を、彼に捧げてもよいのだろうか?
 私にとって最愛である彼に、そのような悪いものを捧げることはできない。
 よって私は、私の心の中から、悪しき思いを完全に取り除こう。
 また、私にとって最愛である彼に、すべてのものを捧げるなら――『私のもの』などはどこに残るだろうか?」

 このように自己反省をし続けることで、人は最終的に、悪いことや好ましくないことは何もすることができなくなります。

 このようにすべてをささげ続けて、人が彼の蓮華の御足の下で無心となり、少しの「私のもの」もなしにすべてを犠牲にしたとき、
 何もなくなったその人に、彼は彼のものを運んできてくださるかもしれません。

 あなたは、その幸運な瞬間に、彼が何を行なうかを知っていますか?

 あなたのその少しの献身へのご褒美として、彼はあなたを完全にします。
 そしてあなたには、何も達成できないものはなくなるでしょう。
 そのとき、あなたの自己献身は、完全なものとなります。
 まさしくその瞬間、「分けられない一者」は姿をあらわします。
 完全なる完全性が、おのずから明らかになるのです。

 これはとても素晴らしいところだね。つまり、朝起きた瞬間から夜眠りに落ちるまで、すべてを捧げる。

 これはわたしも経験あるんだけれど、それをやっていると、最初はね、そう言いながらもいろいろ悪いことをやってしまいます。例えばそうですね――例えばの話としてね、さっき出たギャンブルにしましょうかね。例えば、パチンコでもスロットでもいいけど、なんかはまってやってると。で、こういう教えを聞いて、「ああ、今日もパチンコ行こうかな」と。「スロット行こうかな」と。こうパチンコやりながら、「ああ、これも神に捧げます」と。そういう最初の段階ではね、半分煩悩を肯定した感じになります。「ああ、これも捧げます」と。「ああ、おれはちょっとパチンコやめられないからやるけども、捧げます」と。最初はこれでオッケーです。あるいは例えば、いろんなもの食べたいと。で、「それも捧げます」と。あるいは、もっと邪悪なことで言えば、人のことをわーって悪口言っちゃうと。あるいは、誰かと噂話でいろんな人の陰口を言うと。で、ぺちゃくちゃしゃべりながら、でもそれも捧げてる、最初はね。

 でもそれを繰り返してるうちに、罪悪感は増してきます。で、捧げられなくなってきます。で、捧げられなくても捧げるっていう一つの修行になってるから、捧げるっていう行為はやめてはいけない。そうすると途中からその行為ができなくなってきます。「さすがにちょっと全部捧げてるから、人の陰口は言えないな」と。で、あるいはそのパチンコとかあんまり人に迷惑かけないようなことだったら最初はやってもいいかと思ってるんだけど、途中段階から、「いやー、これを捧げるのは失礼かな……」っていう気持ちの方が増してくる。で、どんどんそれが高まってくると、もう本当にはっきり言って何もできなくなります。だからちょっと窮屈な感じになってくる。

 で、よくこの段階で、泣き言を言ってくる人がいます(笑)。「先生、人生おもしろくないです」と(笑)。つまり、この段階でよくあるパターンなんだけど、にっちもさっちもいかない状態(笑)。まだ完全に神に捧げてない。でも、なんか現世に戻れなくなっちゃったと(笑)。「どうしてくれるんですか」って言う人がよくいるわけだけど(笑)。

 さらにもっと進むと、だんだんその捧げていることが喜びになってくる。で、最終的には、ここに書いているように、すべて捧げちゃったんで何もなくなっちゃったっていう感じになってくる。つまり、これは結果的に自我意識が崩壊していくわけだけど。

 で、ここで比喩的に書かれているのは、何もなくなっちゃったので神がプレゼントをくれるんです。で、そのプレゼントというのが、「分けられない一者」――つまり、すべてに遍在してる完全なる神の発見っていうかな。それはもう最終段階だけどね、その境地にいたりますよと。

 で、そのための、ここは、理想的な教えというよりは、実質的な修行です。つまり、実質的にこれはみなさんやるといいです。普段からすべてを捧げようと。ということは、変なことはできない。あるいは、心の中での変な思いは持てない。

 これは別の教えとして、神の応接間っていう教えもあるけどね。つまり、心に常に神をお招きしなさいと。常に神を胸に観想しなさいと。でも、ちょっと待ってください。胸に神をお招きするってことは、胸が汚かったら失礼だと(笑)。だから心をいつもきれいに保たなきゃいけない、っていう考えと同じだね。

 常にすべての思い、言葉、行為を神に捧げなきゃいけないから、その三つをすべてきれいしていなきゃいけないって考えるんだね。これはとても有効な修行です。こういう考えをしたからといってその日のうちにすべてが変わるわけではないが、毎日毎日こういうことを考えていると、必然的に変わってきます。

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