解説「菩薩の生き方」第十九回(7)

「『シャーンティデーヴァ(平和・寂静の神)』という名前とはそぐわないような勇ましい表現が展開されていますね。しかし本来、シャーンティとは、動物的なぼーっとした平和のことではないのです。それは煩悩などの汚れが滅された、寂静の平和です。だからその境地を得るまでは、シャーンティデーヴァは煩悩と勇ましく戦い続けるのです。そしてもちろん我々もそうしなくてはなりません。」
はい。つまりシャーンティっていうのは、よく一般的にね、シャーンティ、シャーンティ、シャーンティと。まあ、それは平和、ピースと訳されたりするけど、それは一般的な平和とかピースっていう言葉が持つイメージとはちょっと違うと。つまり完全に自分の中のけがれが除かれて生じる、心の本性の寂静、安らぎ、調和、これであると。だからこれを勝ち取るには、つまりさっきの間違ったバクティとかと同じで、もう煩悩に完全に浸食された状態で、ボーッとして「シャーンティ、シャーンティ」とか言ってたらそれは駄目です。マリファナとか吸って、「ああ、ピース、ピース、シャーンティ、シャーンティ」――こういうヨーギーにはもちろんなっちゃいけない。当たり前だけどね(笑)。じゃなくて、徹底的に自分のけがれと戦うんだと。そののちに生じる、勝ち取る、つかみ取る、安らぎの境地、それがシャーンティであってね。はい。だからわれわれもそのように戦って、本当のシャーンティを勝ち取らなきゃいけないんだと。
そして「煩悩というのは、私の心を住処としているので、もしここを追い出されたら、他に行くところがない」っていう表現ね。「戦に負けた煩悩が再び力を盛り返す場所、それは『愚鈍に基づく私の無気力』だけである」と。これはとても面白い表現ですね。普通は戦があって、例えば昔の戦国時代みたいに、まあ戦の場で、例えば武田信玄と織田信長が戦いました、っていう場があったとしたら、で、例えば武田が負けたとしたら、当然、その戦場から自分の陣営に引き返していくと。つまり自分の拠点みたいなのがあると。まあ、もちろんその拠点もやられちゃったら終わりですけども、普通は、その戦の場から、戦場から、そこで負けたとしても、いったん撤退する拠点はあると。しかし、煩悩にはそれはないと。唯一あるとすれば、「愚鈍に基づく私の無気力」だけであると。そこを拠点とし、煩悩はまた英気を養い力を盛り返してしまうと。
これはつまり完全な、最終的な煩悩への勝利だけじゃなくて、ミニマムな――つまりわれわれはさ、もちろん煩悩っていうのは強大な敵だけど、実際には日々、ミニマムな意味ではね、何度も勝ったり負けたりしますよね。勝つことも何度もある。それは小さな戦いね。つまり、この大いなる戦争においては、さっきの革命じゃないけども、あるいは戦国時代の国取りゲームじゃないけども、完全に全世界、つまり自分の全心をひっくり返すのは最終目的ですけど、そこに至るまでは、小さな戦いにおける勝利や敗北っていっぱいあるわけだね。つまり「この国を獲りました」と。でもこの国を獲ろうとしたら逆に負けちゃって、逆にいっぱい獲られちゃったとか、勝ったり負けたりしながら進んでいくと。皆さんもそうだと思うけどね。で、その勝ったとき、つまり小さな、自分の中のいろんなけがれと戦って勝利したと。例えば今までこういうときにどうしてもこういう悪い心が出てきてたけども、修行してたらなんとか戦えるようになって、今日はついにその心に勝ったと。やったー!――油断してたら――もう一回言うけどもね、実はこの煩悩には、逃げて英気を養う拠点は普通はありません。でも条件次第で出てきますよと。それは自分が無気力、愚鈍に基づく無気力っていう心を、つまり隙を見せたときに、そこが彼が安らぐ、つまり煩悩が安らいで力を盛り返す場所になってしまいます。つまりちょっと修行が進んだからって、ちょっと気を抜いて努力をしない状態があると、そこがその煩悩が力を盛り返す場所になっちゃいますよと。で、油断してたら、いつの間にかもう乗り越えたと思った煩悩がまた力をつけてきて、次はやられちゃうかもしれない。
だから逆に言うと、ここは不断の、つまり休みない努力――不放逸ね――これをずーっと続けなきゃいけないんだと。まあ、この間も言ったけど、それは一生続けなきゃいけない。一生休まずに。結局一生なんて短いですからね。高々数十年です。で、繰り返すけど、この真理の実践、煩悩との戦い、こういう場を与えられたこの今生のチャンスをありがたいものだと考えて、もう一瞬一瞬気を抜かずに全力で努力し続けると。努力して努力して努力して努力して、主の思し召しにより最後は死ぬと。それでオッケー。この、気を抜かない、努力をし続ける心構えが必要であると。そうでないと、われわれの無気力を拠点として煩悩は再び力を盛り返すかもしれない。
はい。そうじゃなくて、この章のテーマである「不放逸」――決してだらけずに、怠けずに、努力し続けると。「これに我々が励むならば、そして悟りの智慧という光によって照らすならば、直ちに消え去ってしまう――煩悩などは、高々その程度の敵なんだ」という話だね。
「よって我々は、愚鈍・無気力を捨て、悟りを得るためにただひたすら不放逸に励むべきなのです。」――はい、そして最後の一文は、「病人が医師の忠告どおりに生活し、薬を飲んで初めて治療されるように――衆生の医師である仏陀の言葉を我々は忠実に聞き、守り、その教えどおりに生き、修行することが求められます」と。
この本文もとても美しい文章ですよね。
「以上のように決意して、私は仏陀の説かれた実践規律を実践するための努力をする。医薬によって治療せらるべき者が、医師の命令を守らないで、どうして健康となりえようか。」
よくこれは病気とか、それからその治療っていうものが修行とたとえられるわけだけど。つまりわれわれはまさに完全に病人であると。そして、われわれを救ってくださる医師、これが仏陀であり、グルであると。そしてその救うための方法、治療法や、あるいはそのための具体的な薬ね、これが教えであり、あるいは修行であると。この関係性がちゃんと分かっていたら、当たり前な話だけど――まずこの関係性でいったらさ、つまり、われわれがまずこの医師に巡り合えたこと、医者、聖なる医者に巡り合えたことを、まずわれわれは喜びとしなきゃいけない。はい。しかしそこで、つまりこの病人が偉大な医者と巡り会ったとしても、もらった薬を飲まなかったら、あるいは教えられた治療法を実践しなかったら、それはなんの意味もないですよね。全くそれは宝の持ち腐れであると。よってわれわれは、繰り返すけど、この与えられたチャンスを大変稀なありがたいものだと考えて、全力でその与えられた薬を飲まなきゃいけない、あるいは与えられた治療法を実践しなきゃいけないっていうことだね。
はい。これでこの「菩提心の不放逸」の章は終わりですね。