解説「菩薩の生き方」第十九回(1)

2017年2月15日
解説「菩薩の生き方」第十九回
はい。今日は『菩薩の生き方』ね。これは、いつも言うように、まあ『入菩提行論』の、わたしの書き下ろしによる解説ですね。ですから、いつも言うように、この勉強会っていうのは解説の解説っていう感じになるので、要点がね、解説でまとめられているので、それをより深く理解する、あるいはそこから派生する解説をしていく感じになると思います。
【解説】
愛着や憎しみなどの煩悩、これは我々の敵です。なぜなら、これら煩悩のおかげで、我々は苦しみを受け、悪趣にも落ちるからです。しかし我々はこのとんでもない敵の召使のようになっているのです。なぜかこの苦悩しか与えない敵の言いなりになっているのが私たちです。
はい。ちょっとずついきますが、これは分かりやすいですね。愛着や憎しみ、いわゆる煩悩といわれるもの、これは敵なんだと。なぜ敵かというと、こいつらがいるおかげでわれわれは苦しみを味わっちゃうし、こいつらのおかげで、つまり煩悩のおかげでわれわれは悪趣、苦しみの世界に落とされると。だからそれは定義からいうと、まさに煩悩といわれるもの、われわれの心のけがれといわれているものは、敵であると。
しかし、なぜかわれわれはそのとんでもない敵の召使いのようになっていますと。なんかメリットをわれわれに与えてくれるならまだ分かるけども、そうじゃなくてこのけがれ、心のけがれ、煩悩っていうものは、われわれに大変な苦悩と、そして取り返しのつかない悪趣への落下という結果をもたらす。それなのに、なぜかわれわれはこの敵の言いなりになってしまっていますよということですね。
この煩悩という敵は、我々の心に住んで、我々に苦しみを与え、我々の肉体も精神も良いカルマもすべて滅ぼします。こんなとんでもない敵に対して、なぜか我々は怒ることがないのです。これをシャーンティデーヴァは「誤った忍耐心」と呼んでいます。
現代人はちょっとしたことで自分の被害を叫び、加害者を非難しますが、最も攻撃すべき加害者は、自己の心の中にいるのです。
はい。これもこのままですね。「この煩悩という敵は、我々の心に住み、我々に苦しみを与え、我々の肉体も精神も良いカルマもすべて滅ぼす」と。われわれの中に住み、その煩悩があるおかげで、つまり心のけがれのおかげで、われわれは肉体も疲弊したり、あるいは病気になったり傷ついたりすると。そして精神を――精神を滅ぼすっていうのは、一つはもちろん精神的に煩悩のおかげで苦しみを味わわなきゃいけないともいえるし、それからより深い意味では、当然この心のけがれのせいでわれわれは、真我とか、悟りの心、あるいはほんとの意味での至福から遠ざけられて、苦悩を味わわされなきゃいけないと。
はい、そして良いカルマも滅ぼすと。もともと良いカルマがあったとしても、煩悩のおかげで悪業をなし、あるいは真理との縁を傷つけるようなことをなしてしまう。
つまり、ほんとにこれはとんでもない敵なんだと。
しかし、なぜかわれわれはそれに怒らない。それは誤った忍耐心なんだと。「現代人はちょっとしたことで自分の被害を叫び、加害者を非難しますが、最も攻撃すべき加害者は、自己の心の中にいるんだ」と。
われわれがもし――そうだな、あらゆる敵、あらゆる加害者に怒らない人だったらまだ分かると。温厚であると。ね(笑)。温厚で誰にも怒らないんだったら分かるけど、そうじゃなくて特に現代人は、ほんとにネットとか見てもそうだけど、ちょっとしたことで怒り、自分の被害の正当性を主張し、で、加害者を糾弾すると。あるいはちょっとしたことでムカムカッとして文句を言ったりすると。で、ひどい場合は仕返しをしたりすると。しかしそんな周りの人がちょっとやってくるような被害っていうのは大したもんじゃない。でもこの煩悩がわたしに与える被害っていうのはもうとんでもないと。悪趣に落とす、あるいはさっきから言ってるように、真理との縁を遠ざけたり、あるいは心身において大いなる苦悩をもたらしてくれると。このようなもうとんでもない敵なのに、なんでこいつにだけ忍耐するんだと。なんでこいつにだけ怒りを発さないんだと。これがわれわれの顛倒してるところなんだね。これは誤った忍耐心であると。
つまり、実際には他者に対しては極限的に、お釈迦様も「のこぎりで両手を切り落とされようが怒ってはいけない」って言ってるように、他者との関係においてはわれわれは極限的に忍耐しなきゃいけないんだけど、でもこの自分の中にいる煩悩に対しては忍耐してはいけない。それは間違った忍耐心だと。逆に怒れと。あるいは徹底的に排斥しろと。普通は排斥、怒り、攻撃、これは否定されますけど(笑)、煩悩に対してだけは肯定されます。煩悩は徹底的に排斥、怒り、そして攻撃し、打ちのめせと。ね。暴力は駄目だって言われるけども、煩悩に関しては徹底的にもう打ち殺せということですね。
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