解説「菩薩の生き方」第二十六回(8)

「私の心は、他人の利益に反対し、自己の利益を求め、あるいは取り巻きを欲し、饒舌(じょうぜつ)を望む。」
はい、特にこの前半は、根本的な話ですね。つまりわれわれのエゴっていうのは、もともとそういう性質がある。他人の利益に反対すると。で、自己の利益を求めると。はい。だから基本的にそういうシステムでわれわれのエゴができてるから、当然そっちの方に行きがちなわけだけど、だからこれもちゃんとそれを覚えといて、そっちに行きそうになったら――だから繰り返すけど、これは、ボーッとしてちゃもちろんできないんですよ。ちゃんと、さっきから言ってるように念正智して、心を見つめないと分からない。「いや、わたしは全然、心が変になってませんよ。」――でも実際には潜在意識とか、あるいは潜在意識どころか表層意識でも、常に自己の利益を求め、で、逆に他人の利益に反対すると。あるいは自分の利益と他人の利益がぶつかる場合は他人の利益を阻害しようとすると。はい、こういうのを見つけた場合はガッと木材になると。
「忍耐心無く、怠慢で、臆病であり、向こう見ずで、罵詈(ばり)雑言(ぞうごん)を好み、また自己の朋党を偏愛する。」
これも一個一個は言わないけども、こういったこともしっかり覚えておいて、そのような状況にあるときにね、ガッとまた木材になりなさいと。はい。
しかし、まあ、ちょっとここで解説で冗談みたいに書いてあるけども、このように念正智して、「あ、駄目だ!」ってなるたびにグッとストップして木材になると。でもこれをほんとに細かくやってたら、われわれは二十四時間木材でなきゃいけないと(笑)。だってわれわれの心は二十四時間変なのが出ちゃうと。だからそのたびにやってたらもう動けないと。ね。「あれ? なんかMさんさっき立ち上がったと思ったら、一時間ぐらい動かない」と(笑)。「ああ、なんかいろいろあって闘ってるんだな」と。ね(笑)。でもこれを続けてたらほんとに二十四時間動かないってなっちゃう。それはそれでいいんだけどね。それはそれでいいんだけど、そこでもう一つ、プラスアルファの教えが出てくるわけだね。それが、この対治、つまり対抗治療っていうやつね。
もちろん対抗さえもできないほど、なんていうかな、心が急に暴れ回り大変なときは、もう木材でかまいません。「やばい! これはもうストップだ」と。あるよね。グワーッてなんか悪い心が出ちゃって、なんか言っちゃいそうになると。これはもう対抗してる暇がないよね。もうそのときはストップでかまわない。もう不自然でもかまわない。もうバレちゃうけどね(笑)。いきなり楽しく話してたのに、いきなりウッて固まって(笑)、「あ、なんか今、悪い心出ましたね?」とバレちゃうけども、まあ、それはそれでいいよ。別にいいよね(笑)。それくらいの感じでかまわないんだけど、じゃなくて余裕があるときは対抗治療を出すと。つまりそれがここに書いてある、例えば傲慢さが出たときは称賛の瞑想をすると。あるいは懺悔をすると。あるいは憎しみが出たときには慈悲の瞑想をするなど、つまり出たその悪い意識、あるいは出そうになってる意識と逆のっていうかな、それを駆逐するような教え、あるいは考え方、あるいは現実の修行の場合もあるかもしれない。
現実の修行っていうのはさ、例えばそもそも、その原因を考えてね、「今、悪い心が出てる」と。これはそもそも気が下がってるからだと。この場合はさ、例えばムドラーやったりとか、礼拝したりとか、つまり気が上がるような修行をすればいいわけですよね。あるいは気が詰まってるからだと。じゃあ気を通すような修行をやればいい。まあ現代ではだから、ね、いつも言うように、インテグラルヨーガ、つまり統合的にやった方がいいと。だからカイラスでもそうだけど、精神的なバクティとか菩薩道だけではなくて、行法的な、つまり肉体的な物理的な修行もいろいろあると。だからそういうのもいろいろ駆使して。
あるいは教えにおいても、当然それぞれの、なんていうか、性格とかによってさ、いろいろ違いますよね。「わたしはこの教えでいつも心が戻る」とかいろいろあるよね。そういうのを利用して、自分が変になりそうなとき、変な意識が出たり変なことを言っちゃいそうになるときに、その教えをバッと適用すると。
はい。だから、そういうことをやることが、なんていうかな、生きた修行っていうことだね。そういうことをやっていくことによって現実的に、さっきも言ったように心が熟成するっていうか、正しく練られていくんだね。
はい。もちろんここで言ってるように、「択法覚支」って最後に書いてあるけども、そのように――行法の場合は別としてね、考え方として、「はい、このような変な考えが出たから、この教えを適用して心を変えましょう」っていうときに、その教えのストックがなきゃできないですよね。よってまずは、しっかり教学が大事であると。教学ね。そして教学プラス、繰り返すけど、教学を実践すると。実践することによって、当然皆さんのものになる。
皆さん、自分の心――自分自身だけじゃなくてさ、人に説くっていうことを考えたらいいかもしれないね。人に説くと。実際皆さんが将来、多くの人に教えを説くことがあるかどうかは別にして、人に説く場合ってさ、ほんとに分かってないと説けないですよね。分かってないとっていうのは、ただ机上の、読んだ教えだけだったら、なんか非常に薄っぺらいっていうか。でも自分がそれを悪戦苦闘してさ、身に付けようとして、失敗したりして、いろいろやって、なんとか闘って身に付けようとしてきた教えの場合は、いろいろ説けますよね。
例えば皆さんの後輩がいたとしてね、後輩から「いやあ、今こういう心の状態なんです」という相談を受けたときに、自分がそれに対していろんな教えをぶつけて過去に闘ってたら、分かりますよね。「ああ、そんな感じね」と。ね(笑)。「今この教えをやろうとして、こうなんでしょ? そうなんだよね」と(笑)。「おれもそうだった」と。ね。「そういうときはこうやるしかないんだよ」と。あるいは「そういうときはこの考えがいいよ」と、できるよね。で、それを、なんていうかな、ひたすら、いろんな教えに対して真剣にぶつかってればぶつかってるほど、自分の中でそれは成熟されるよね。で、それは今言ったように人にも説けるし、自分にも応用できるわけです。そういうのが少ないと、なんていうかな、武器が少ないからさ、グーッと出たときにこれにどれを当てはめていいか分かんないと。
だからもちろんそのようにして、何度失敗してもいいんだよ。例えばある悪い心が出て、この教えを当てはめようとしたけども全然効かなかったと。これは何かが足りないと。もっと教学をいろいろすると。ね。「教えを当てはめようとしてるんだけど、全然当てはまんないんです!」「どれだけ教学してますか?」「本何冊読みましたか?」「二冊です!」「駄目だ」と(笑)。「二冊ぐらいじゃ駄目だ」と。「徹底的にもっと読みなさい」と。ね、あるいは「何回読みましたか?」と。「二冊を三回読みました」と。「三回読んだのはいいけども、もっと読みましょう」と。ね。
あるいは、繰り返すけど、多くの教えを学び、それをいろんな場面で、闘って、適用しようとすると。で、例えば別の煩悩に対して闘ってた教えがあると。で、この教えは、別の煩悩と闘ってたことによってちょっと成熟されています。で、これをこっちのものにも応用できるかもしれないんだね。でもそういう闘いをいろいろしてないと、応用できるようなストックも少なくなる。
はい、しかしその同じ煩悩に対して、今度は、「前、この教えで適用できた。二回目もできた。三回目はできない」っていうときもある。そういうときは別の教えを持ってくる必要があるかもしれない。で、やってみると。でもそれも駄目だったと。じゃあこっちかなとやってみると。やってるうちに、「あ、これだった!」ってなるかもしれない。こういう実践的な闘いっていうかな。
繰り返すけどそれには、まず第一に教えのストックがなきゃいけないから、教学を徹底的にしなきゃいけない。そして真剣に修行っていうものを考えて、普段から自分の心と教えを闘わせると。この実践をし続けると。で、そのストックが多くなればなるほど、人に対しても、あるいは自分の心に対しても、択法、つまり適正な法を選んでバッと当てはめることができると。
そうですね、皆さんが実際に、さっきも言ったように、将来どれだけ人に教えを説くかどうかは別にして、そういう気持ちは持ってた方がいいね。気持ちっていうのは、わたしは人に、将来ね、あるいは現在かもしれないけど、後輩とか、あるいはまだ教えを知らない人に対して教えを説かなきゃいけないんだと。実際に説かなくてもいいよ、チャンスがなかったら。説かなくてもいいんだけど、刀は磨いておくっていうことだね。つまりそれによって、多くのことに気付けます、逆に。真剣になるから。
わたしも特に、そうだな、昔、若いころ、よくそういうことがあったね。よくそういうことがあったっていうのは、まだ修行が――まあ、といっても、それでもわたしは中学生くらいから修行してるからさ、結構、それでも年数は経ってたかもしれないけども――まだ修行がそんな成熟してないころに、例えばある人の悩みとかを聞いてあげると。で、教えを説いたりすると。で、そういうときに例えば、その人のためを思って、いろんな、自分の中にあるストックとか経験とかを話したりとかするわけだけど、それは非常に自分にとっても役に立つんだね。そのように考えて話してあげることによって、変な話だけどさ、真剣になるでしょ。「ああ、そうなんですか――何を言ってあげたらいいかな」と。もちろん皆さんの智慧が高まってくればさ、直感によってパッて言うことができるけど、そこまでまだいっていない場合、「なんて言えばいいんだ!」っていう感じがあって、グーッて頭をフル回転させて、あるいは深く考えて、バッて言ってあげたりすると。そうすると、変な話なんだけどね、自分もなんか驚いたり納得したりするんだね。例えばバーッて言ってたときに、自分の中の経験や教えをフル回転させて、「それはもう、こうしてこうしてこうした方がいいですよ」って言ったときに、相手は納得するんだけど、自分も「なるほどなあ」と(笑)。
(一同笑)
「そりゃそうだな」みたいな(笑)。つまりそれだけ、逆に言うと、真剣じゃないんだね、普段ね。自分の中でいろいろ生じたときに、「これをなんとか教えで駆逐しなきゃいけない!」っていう思いが真剣じゃないんです。でも人に対してはちょっと真剣になるでしょ。実際に相手を変えなきゃいけないっていう救済の心があった場合ね。
だから、ちょっと話がずれるけど、菩提心、あるいは救済の心っていうのは素晴らしいんです。つまりその人のためになろうっていう思いが、実際には自分の修行としてね、自分の心までもいろいろ変えてくれたりとか、あるいは自分の中の智慧も高めてくれると。
はい。で、ちょっと今言いたかったのは、話を戻すけども、そのような、他者に自分がそれを説けるだろうかと、そう考えると、より真剣になれるかもしれない。で、そういうかたちで、実際に説かなくてもいいんだけど、実際に説かなくてもいいんだけど――例えば、たまにそういうふうに説いてる場面をイメージしてもいいかもしれないね。この教えを、どのように、苦しんでる人に説けばいいんだろうか?と。で、それと同じような感覚で、自分の今生じてる悪しき心に対して、答えを与えると。それを真剣に行なうと。で、それを何度も何度も繰り返すことによって、繰り返すけど、成熟されたものがどんどん増えていくんだね。それがあって初めて、ここに書いてある択法覚支、つまり、「はい、こういう悪いのが出たから、どれを出しましょうか?」っていうのができるんだね。その「どれを出しましょうか?」は、ストックがなかったらできないからね。
もう一回言うよ。何度も繰り返してるけど、まずストックの意味は、第一の意味、教えが入ってるかどうかです。これは教学でなんとかなる。だからこれは教学をしっかり行なうと。これがストック第一ね。で、もう一つの意味は、入ってるけど、成熟されてるかどうかなんだね。成熟されてなかったら役に立たない場合があると。だからそれは、真剣に――まあ、この択法覚支っていうか、対治法をやること自体が成熟させることになる。繰り返し繰り返し、教えを出して当てはめると。でも最初は成熟してないからあんまり効きません。でもやり続けることによって成熟していきます。
はい。だから、日々真剣に自分の心と闘うと。教えによって闘うと。それそのものが、このような素晴らしいサイクルをつくり出していくっていうことですね。
