解説「菩薩の生き方」第二十六回(2)

はい、そして後半は、
「『私の心はどこに転ずるか』と、サマーディのくびきを、瞬間といえども投げ捨てることのないように、反省すべきである。」
はい、今度はくびきね。牛とかの首にかけるくびき。ここでのイメージとしては、「心の狂象が暴れないように束縛している縛(いまし)めみたいなイメージである」と。で、この心の狂象が、暴れないように、まあ、ある意味首輪のような――首輪というよりも枷っていうかね。もう完全にその動きを制限してしまうような強い枷のようなもの。これが、ここではサマーディっていう言葉が使われてる。
で、このサマーディっていうのは、ここに書かれてあるように――サマーディっていうのは実際は広い意味があって、その狭義、つまり狭い意味でのサマーディは、みんなも知ってるように、非常に深い意識に入った、つまり悟りを得るための究極の瞑想状態ね。これがサマーディ。じゃなくてもともとはサマーディっていうのは、広い意味では「集中」っていう意味があります。まあ実際、『ヨーガスートラ』とかでは、瞑想のね、第一段階、精神集中。第二段階、集中の拡大、「ディヤーナ」と。で、第三段階が「究極のサマーディ」っていってるわけだけど。で、その全部をひっくるめて、全プロセスをサンヤマっていうわけですけども。じゃなくてこの全プロセスもサマーディっていったりする場合もあると。
だからこれ、この場合はその広い意味でのサマーディね。つまりわれわれが、ほんとに深い究極の意識に入ってなかったとしても、しっかりと集中してる状態。意識があっちこっち行ってないで、あるいはボーッとしてないで集中してる状態。これがサマーディね。このサマーディこそが、つまり精神集中こそが、心の狂象が暴れないようにするためのくびきなんだと。
はい。だから、さっきの前半の例え、イメージと合わせるならば――もう一回言うよ――まず法の柱、教えをしっかり学び、あるいはグルやダルマに帰依をし、それによって、ドーンと柱を深く、しかも太く打ち立てると。
それは、そうですね、まずはしっかりと教学をし、それを心に植え付けるっていうのが一つ。植え付けるっていうのは、繰り返し教学する、これは一つです。つまりデータを植え付けると。で、もう一つは、ちゃんと教学したとおりに生きてみると。日々教学どおりに生きると。これによって、皆さんの教学は熟成していきます。
意味分かるよね? つまり、使っていない教学じゃなくて、教学どおりに生きてみると、いろんなことが起きる。失敗したりとか、あるいは逆に、教学どおりにいろいろやってみたら素晴らしい状態になって、教学の素晴らしさに気付くとかね。そういうかたちでどんどん熟成させると。はい。これらによって法はどんどん根付いていくと。
はい。もう一つは帰依、あるいは信ですね。つまりグルとか、あるいはダルマそのもの、教えそのものや、あるいはそもそも教えをお説きになった仏陀や聖者方、あるいはグルといったものに対する強力な信ね。この信がある人、帰依がある人も、法は深く根付きます。
このさ、帰依や信があるタイプは、ぶっちゃけて言うと、前者、つまり教学のデータが少なくても、あるいはまだ教えの実践が足りなくて成熟してなくても、深く入ります。意味分かるよね? つまりこの後者のタイプっていうのは、まだ本を一回しか読んでいないと。うん。あるいはあんまりまだ実践してないから、このほんとの意味がよく分かってないっていうか、この教えの正しさ、ほんとに正しいか分かってない。しかし、「グルが言ったんだから」、あるいは「法として説かれてるんだから、正しいに決まってる!」っていう思いによって、グッてこう根付くんだね。
だからこれは両者があった方がいいね。その無心の帰依プラス、実際にしっかり教えを学んで、あるいは実践することによって熟成させると。こうしたらもうほんとに、太く、そして深い、つまり壊れない。ちょっとやそっとじゃ倒れないと。
ここで倒れるって言ってるのはさ、つまり嵐が吹くと。嵐っていうのは、皆さんの人生でカルマ落としが起きたり、いろんな苦しいことが起きたときに、皆さんの中に疑念が生ずると。つまり、確固としてない場合ね。確固としてない場合、「えー、この教え正しいんだろか?」と。「こういうときは怒っちゃいけなくて、こういう態度を取んなきゃいけないとかいわれてるけど、そうかなあ?」と。ね(笑)。「そんなの嫌だー!」とかになっちゃうよね。うん。でも、ちゃんと帰依ができてたり、あるいは教えに対する確信があったり経験があったりすると、教えは倒れないと。
このね、教えと対比されるのは、エゴです。ここで今、何を言ってるのかっていうと、嵐が起きたとき、倒れるのはどちらかです。どちらかっていうのは、エゴか教えです。ね。どっちかが倒れるしかないでしょ? うん。だから教えが倒れてエゴが勝っちゃうか、あるいはエゴが倒れて教えが勝つかと。
だいたいあのティローとナーローの話とかミラレーパとマルパの話みたいな、ああいう、そうですね、グルと弟子による厳しい、スピーディーな心の変革っていうのは、だいたいそういうのを利用するんだね。そういうのを利用するっていうのは、まず徹底的に帰依をさせて、帰依をさせた上で、エゴが超嫌がるような、あるいはエゴが超逃げ出したくなるような環境にバーッと落とすわけだね。そうするともうエゴは二択するしかなくなるから。エゴを壊すか、帰依を壊すかと。あるいはエゴを壊すか、教えを壊すか、どっちかしかなくなる。でもその前提で帰依がしっかりできてたら、教えとか帰依を壊すことができなくなるから、もうしょうがないからエゴを壊すしかないみたいになっちゃう。でもこれも、もしその前提ができてなかったらね、逆にグルとの縁が壊れたり、あるいは教えとの縁が壊れたりすると。これはまあ大変なマイナスになっちゃうわけだね。
はい。で、ちょっと話を戻すけども、イメージとして、もう一回言うよ、しっかりと法の柱を打ち立てると。はい。そして、エゴの、この心という狂った象を、しっかりとその教えに結び付けると。法の柱に結び付けると。はい。で、そして、それが駄目になっちゃわないように、つまり、この心の象が鎖を断ち切るとか、あるいは法の柱を抜き取ったりしないように、見続けるわけだね。はい、ここにおいて、さっき言った、精神集中をし続けるっていうことです。グーッと見続けるわけだね。絶対に隙を見せない。絶対に、なんていうかな、ちょっとでも――仮の話としてね、グーッと見てて、もしちょっとでも杭がグッて動きそうになったら、「まずい!」 と思って修正するわけだね。「あ、駄目だ駄目だ」と。「このままだとやられてしまう」と。また打ち直すとかね。あるいはもっと太くするとか。あるいは鎖がちょっと切れそうになってると。それをもし見つけたとしたら、より強い鎖をまた巻き直すとかね。これが精神集中。つまり常に、二十四時間、自分の心に集中して、あるいは聖なる教えに集中して、心という狂象が暴れてとんでもないことをしでかさないように、正智し続けると。はい、これがこの章のテーマでもある念正智ね。
-
前の記事
解説「菩薩の生き方」第二十六回(1) -
次の記事
解説「菩薩の生き方」第二十六回(3)
