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「すべてのすべて」

◎すべてのすべて

【本文】
 だが、聖なる性質を有する偉大なる魂は、わたしを万物の起源にして不滅の存在と知り、
 不動の信念をもってわたしを礼拝する。

 この人たちは、常にわたしを賛嘆し、不動の志を持って精進し、
 わたしの前に恭しく身をかがめ、常に信愛の念をもって礼拝する。

 自分の得た叡智をわたしに供養する人々も、わたしを全一なる至高者としてあがめ、
 唯一の存在でありながらも種々の相をとり、宇宙に偏在する主なりとして礼拝する。

 わたしはヴェーダ祭式であり、供養であり、薬草であり、
 かつマントラであり、ミルクであり、供物でもある。

 わたしはこの宇宙の父であり、母であり、万有を支える太祖でもある。
 またわたしは人の知るべき究極の存在であり、万物を浄化するものであり、もろもろの聖典でもある。

 わたしはすべての最終目的であり、保護者であり、主であり、目撃者である。またすべての住処、避難所、友人でもある。
 さらにわたしはすべての起源であり、消滅であり、基礎であり、宝庫であり、そして不滅の種子でもある。

 わたしは熱を与え、雨を止め、雨を降らせる。
 わたしは不死であり、また死でもある。さらに目に見える存在であり、かつ目に見えない存在でもある。

 はい。まあ、結局、全部だよと(笑)。いろんな形で言っているわけだけど(笑)。
 そして聖なる性質を持つ偉大な魂は、不動の信念を持って礼拝し、そして自分の得た叡智を供養するんだと。
 結局、修行としては、やっぱりバクティ・ヨーガにおいては、供養の修行って一番いいね。
 供養の修行っていうのは、あらゆるものを供養する。それは自分の執着の対象も、清らかなものもけがれたものも、すべては供養だと。この基本概念というか、基本的な態度ができてたらいいね。
 供養っていうのはもちろん、最初の段階ではイメージでいいんだけども。
 例えば自分の食事もそうだけども、あるいはいろんな楽しみ、あるいはいろんな景色もそうだけど――自分が経験するあらゆるものは、供養なんだと。すべては供養だと。
 あるいは修行自体も供養だと。そして修行によって得た何か悟りがあったとして、それも、「おれは悟った。すごい」――じゃなくて、これもまた供物として捧げると。
 もうすべてが供養だと。あるいは何か自分が執着してたりしたら、それは供養だと。あるいは、例えば誰かに対して怒っちゃったと。ああ、これも供養すると(笑)。ね。
 全部供養するんだっていう考えあるんだね。
 これはバクティ・ヨーガの一つの基礎だね。
 だから完全な最終の悟りを得たら、供養さえも必要なくなるんだけど。一体化するから。その前っていうのは、われわれは徹底的に自分の人生、あるいは自分のすべての行為を供物として考える。だから捧げているんだって考えながら、あらゆる行為を行なうんだね。

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