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「我が精神よ、堅固であれ」

【本文】

 願わしからぬことの実行と、願わしきことの挫折によって生じた憂いと悩み--それを養いとして怒りが燃え上がり、それが私を殺す。

 それ故、私はまずこの敵の養いを破壊しよう。なぜなら、私を殲滅する以外に、この敵になすべき仕事はないから。

 最も願わしからぬことが到来しても、私の歓喜は乱されるべきではない。憂いや悩みがあれば、願うことは成立せず、ことに善が滅ぼされる。

 もし対治法があるならば、憂いや悩みは何の役に立つか。また対治法がなくても、憂いや悩みは何の役に立つか。

【解説】

 「こうなってほしくない」と思うことが起きる。
 「こうなってほしい」と思ったことが起きない。
 この二つによって、私たちの中に憂いと悩みが発生します。
 そしてこの憂いと悩みを養いとして--つまり食料、燃料として、怒りが燃え上がる。
 そしてその燃え上がった怒りによって、前に書いたように、私の功徳や幸福が破壊されるということですね。

 よってまず私たちがなすべきことは、たとえ自分の意に反することが起きたとしても、憂いや悩みに陥らないということです。
 どんなことがあっても、ほがらかで、機嫌よく、喜びに満ちた心でいることです。
 バクティ・ヨーガではそれを、「すべては神の思し召し」という説き方で展開します。真のバクティ・ヨーガの実践者にとっては、どんな喜びも苦しみも、すべては神の愛なので、心から喜ばしいことなのです。 
 それ以外の方法でもいいですが、とにかく、常に明るく喜びに満ちた心を保つことです。
 しかし、何のよりどころもないのに、そんなことはできませんね。
 よってここまでの章で培った、菩提心の喜び、供養の喜び、懺悔による自己の悪業の認識と、悪業が落ちていることに対する喜び、そして正智と正念による、正しい教えや聖なるものを常に心から離さないということ等が、役に立つのです。これまでの章で示されていたことが理解・実践できていれば、どんなことがあっても心の歓喜を乱さないというのは、容易にできるのです。

 意に反したことが起きたとき、憂いや悩みにふけることで、何か良いことがあるなら別ですが、実際は憂いても悩んでも、何の役にも立ちません。
 意に反することが起きて、その後、もしそれが好転するとしたら、それは、悩まないでも好転するでしょう。だから憂いても悩んでも意味がありません。
 意に反することが起きて、その後、それが好転しないとしたら、それは、悩んでも好転しないでしょう。だから憂いても悩んでも意味がありません。

 ここは、そのような意味だと思います。本文だけだとちょっとわかりにくいですね。

【本文】
 
 苦しみ、辱め、悪口、誹謗--これらは、われらの愛する者、および自己にとっては、望ましくないことである。しかしそれは、仇敵については、反対である。

 安楽は極めて得がたく、苦しみは容易に生ずる。(しかし)ただ苦しみによってのみ、(輪廻は)免れうる。ゆえに、我が精神よ、堅固であれ。

【解説】

 いくら私や私の仲間が、苦しみ、辱め、悪口、誹謗などを避けたいと考えていたとしても、我々の悪しきカルマによって、我々にそのような苦しみを与えることを望む敵は、次々に登場してきます。
 お釈迦様が悟りを開き、一番最初に「この世は苦である。それを理解すべきである」とお説きになったように、この輪廻の世界は、苦しみに満ちています。人生を冷静に見つめると、安楽は得がたく、苦しみは生じやすいことに気がつきます。
 しかし苦しみが生じ、それから逃げずに心を動かさないことによってのみ、悪業は浄化されます。カルマが完全に浄化されることによって、我々は輪廻から解放されます。繰り返しますが、悪業が浄化されるためには、苦しみは必要なのです。今流行のヒーリングとか、お祓いとか、何かインスタントな方法で、カルマが消えることがありません。そんな都合のいいことはないのです。自らがなしたことの清算は、受けなければなりません。それによって我々は輪廻から解放されるのですから、我々はそれをしっかりと認識し、心を堅固に、強く保たなければなりません。正しく教えを学び、正念正智を保ち、苦しみから逃げずにがんばりましょう。

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