解説「王のための四十のドーハー」第二回(5)
ちょっと、さっきから言ってることにもう一回戻るけど、このマハームドラーの教えは、あくまでも心の本性をつかむ教えであって云々って言ったけども、ただ、われわれの日々の実践に生かせないことはない。ここに書いてあるようなことをね。例えばこの、今日学んだ「雲の塊は」云々っていう教えね、これはしっかりとわれわれがそれを理解するならば、日々あまり小さなことにとらわれなくなるね。うん。自分が、例えば成功した、失敗したとか、人からどう思われてるとか、あるいは自分は今こういうけがれを持ってるとか、だから卑屈になったり、あるいはちょっとしたことでプライドを持ったりとか、そんなことはどうでもいい、まさに表面上の、雨が降ったり雲ができたり、そんなものにすぎないと。実際はわたしの本性っていうのは完璧なマハームドラー、あるいは完璧なブラフマンの境地なんだと。あるいは衆生もみんな同じようにその完璧な状態にいるんだと。ただそれが、今一時的な――一時的なっていうよりも、この、なんていうかな、雨が降ったり雲ができたり、これはこれで完璧さの現われの一つなんだけど、そこにとらわれちゃってるのが駄目なだけなんだね。
これはだから仏教やヨーガの本質的なところだけども、すべては無常であると。あるいは縁起の法でいろんなことが動くと。カルマによっていろんなことが動くと。これ自体は良くも悪くもないんです。つまりこれもまた、真我の完璧さの現われなんです。悪いのはとらわれてることなんです。だからとらわれさえなければ、なんの問題もない。だからそれが頭にちょっと入ってれば、ちょっといろんなことがあったときに、すぐにはそれを取れなくても、ちょっとこう弱めることはできるかもしれない。いろんなことに執着しちゃったとか、怒りが出たとか、卑屈になった、プライドが出たときに「わたしはなんてばかな小さなことにとらわれてるんだろう」と。「こんなことはわたしの魂の本性とは関係がない」と。ね。
あるいは人もそうですよ。まあ、わたし、前に言ったけど、前に、グーッと瞑想してて、ハッと気付いたことがあって。わたしは真我だと。ということは、周りがわたしに言ってくるさまざまな批判、これは全部外れていると。だって周りの人は真我のことを言ってるわけじゃないでしょ。ね。彼らが見てる、なんらかの実体のないものに対して批判をしてる。でもわたしは真我だから、全部外れじゃんと。ね(笑)。で、褒めるのも同じなんです。「あの人こうだからすごいね、すごいね」――その「あの人」っていうのは全部外れてる。真我だから。これはちょっとわたしが昔悟ったことなんだけど(笑)。で、わたしからの目も全部外れてるんです。「あの人こうだな、こうだな」――全部外れ。真我だから。ね。だからそれが――まあ、それは、なんていうかな、それを悪用しちゃ駄目だけども。自分の煩悩を肯定するために使っちゃ駄目だけど、自分のけがれとかにとらわれないために、そういう教えをね、頭に常に入れておくっていうのはいいことだね。それによって、あまりどうでもいいことにはとらわれなくなる。これは、皆さんが、深くこれについて例えば日々考えたりとか、思索して自分のものにしたら、結構使える考え方ではあるね。今の話も含めてね。
まあ、ほんとは、わたしもそうだしみんなもおそらく好きなのは、バクティヨーガ的な表現の方が好きだと思うんだね。バクティヨーガ的な表現っていうのは、神の愛は完璧だと。ね。神の愛は完璧であって、この世の出来事、この世の物質も含めすべては神の愛にほかならないと。すべては完璧であって、すべては最初から決まっていて、よってなんの心配することもない。わたしが「こうであったらいいな」「こうであったら嫌だな」「これはいいことであってこれは悪いこと」――これはすべてわたしの間違った観念、条件付けであって、すべては最初から完璧なんだと。すべてはただ神の愛に満ちてるんだと。なんて素晴らしいんだと。なんの心配もいらないし、あるいは、わたしが何かに執着したり嫌悪したりするということが、なんの必要もない。すべてはただわたしの錯覚にすぎない。この瞬間も、過去も未来も、すべて含めて完璧な愛の世界だ、という表現と、ここで言ってる表現は同じです。同じなんだけど、バクティ的な表現の方が、楽しい感じがするね(笑)。楽しいっていうか、なんていうかな、人によるだろうけど、心に入ってくるかもしれない。その辺はバガヴァッド・ギーター的な、バクティ的な表現の方がいいかもしれないね。でも言ってることは同じです。
はい、特にここまでは質問ないかな?
はい、で、次からのいくつかの詩は、今度は――さっき「われわれのとらわれが駄目なんだよ、執着が駄目なんだよ」っていうことを言ったけど、このとらわれの問題について、いくつか詩が続きます。
-
前の記事
解説「王のための四十のドーハー」第二回(4) -
次の記事
解説「王のための四十のドーハー」第二回(6)