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「解説『スートラ・サムッチャヤ』」第一回(6)

【本文】

◎信

 タターガタグヒャ(如来秘密経)には、次のように説かれている。

「善男子や善女人が、優れた心によって、無上の正覚に発心することが、信である。
 また、聖者とお会いしたいと欲すること、
 正法を聞きたいと欲すること、
 物惜しみやむさぼりを捨ててたくさんの布施をすること、
 自ら布施をすることに喜びを持つこと、 
 供養を行なうこと、
 戒を具足すること、
 布施を完成すること、
 心にこだわりがないこと、
 無垢な心を持つこと、
 カルマの法則を信じること、
 疑念を持たずに信と理解を持つこと、
 自分がなしたカルマからは逃げられないと知って、命に代えても悪を為さないこと、
 これらが信である。」

 はい。
信ね。いつも言うように、信を持つことはとても大事ですよと。
 でね、これも何回か言ってるけど、純粋な信。純粋な信というものを皆さんがもし持つことができたら、もうそれはほとんど修行が終わったも同然であると言ってもいい。それはまさにバクティヨーガの世界にも通じるわけだけども、まあラーマクリシュナもね、例えば、「本当に心から神を愛し、神のことを考えただけで体が震え、髪が逆立ち、涙が流れるようになったら、もうほとんどその人は修行が終わってる」というぐらいのことを言ってるわけですが、純粋な信というのがわれわれの中に芽生えたならば、それはもう修行っていうかな、悟りは確定されたようなもんなんだね。
 しかし、これもいつも言うように、この信っていう言葉っていうのはとても難しいんですね。つまり、なんとなくわれわれが信仰とか、信じるっていうのでイメージするものと、こういう仏教とかでいう信っていう言葉にはちょっと違いがある。ちょっとギャップがあるんですね。で、そのギャップっていうのは、とても言葉では説明しづらい。
 これも何度も言ってるけども、私自身それに気づくのに何年もかかった。わたしは――何度も言ってるけど、最初のころのわたしは、どちらかというと、信仰っていうのが好きではなかったんだね。うん。信仰にわたしもやっぱりこう、今生のけがれた情報によって、悪いイメージを抱いていたんだね。つまり信仰っていうのは、弱い者がするものだと。修行っていうのは、信じる信じないの話ではなくて、もう合理的にね、しっかり分析的に真理を分析して、あるいは合理的に自分で合理的な修行をして、で、一つ一つ経験してね、進んでいくもんであると。で、その上で納得できればそれを信じればいいと。そういうような発想があったわけですね。
 で、そういう修行をしていると、当然まあ自分がどんどん浄化されたわけだね。浄化されて、自分の心も浄化されていって、あるとき気づいたんです。「あ! 信がすべてだ」と。ね(笑)。「わたしはけがれていた」と(笑)。けがれていたから、合理性やなんかそういう物理的プロセスを求めてたけども、純粋な信に論理は全くいらなかったと。理屈とかそんなものは超えていたと。本当に純粋な信っていうのを目覚めさせなきゃいけなかった。
 だからわたしはここで、勉強会とかでもね、皆さんにバクティとか、信、帰依とかの重要性をすごく説くわけだけど、それはね、わたしが例えば――まあわたしは、いつも言うように中学生くらいから修行してるから、言ってみれば、そうですね、何年もいろんな修行して、やっと気づいた。その無駄な苦労はさせたくないわけだね(笑)。無駄な回り道は別にさせたくないと。つまり、もう答えはストレートに皆さんに知ってほしいわけですね。純粋な信っていうのを皆さんの中に――もちろんいろんな道がありますよ。別の道もありますよ。別の道もあるけども、わたしの見解ではね、純粋な信っていうのが皆さんに芽生えれば、それが一番早い。それが一番ストレートにわれわれを素晴らしい世界にね、あるいは悟りの境地へと連れていってくれるでしょう。
 しかし、何度も言うけども、この信、わたしが言ってるこの信っていうものを、言葉とかで説明するのは非常に難しいんですね。で、ここに書いてあるのも、おそらくその難しいものを、一応いろんな例を挙げて示してると考えてください。つまり逆の言い方をすると、そのような信を持った者っていうのは、こういうことをやるっていうことですね。もしくはこういうような現象が起きると。だからわれわれは、まあ一つのここに挙げられているいろんな例を見ながら、もし自分の中でいろいろ弱い部分があるとしたら、それをどんどん強めていけばいいと。
 もう一回言うけども、そうですね……信っていうのは、とっても、言葉上は信じるって書くわけだけど、なんていうかな、信じるっていうのともちょっと違うんだね。非常にこれは説明しづらいんだけど(笑)……なんていうかな……もう当たり前のようにそれしかないっていうかな。うん。そういう感覚だね。
 だからもちろんこれは期待とも違いますよ。期待とも違う。よくさ、信じて裏切られたっていう話がある。これはね、実際は純粋な意味で言うならば、論理的に成り立たない言葉なんです。信じて裏切られるっていうのは。意味分かるかな? つまりその、裏切られたっていう感覚っていうのは、期待なんだね。期待して裏切られたとは言える。期待してて、期待通りにいかなかった場合、それは裏切られたと。でも、信っていうのはそうじゃないんだね。裏切られるっていうことがありえないんです。信っていうのはね。完全にその、なんていうかな……まあ理解してるっていうか。まあ理解ともちょっと違うね。やっぱり言葉では説明できない(笑)。
 それはだから皆さんが修行進めていくしかないわけだけど、ただ皆さんの中には、恐らくその種子みたいなのは、たくさんあると思います。だからこの間も言ったけども、それをね、ちょっとずつ大事にしていったらいいですね。
 この間も似たような話をしたけども、皆さんの中にはその信とか帰依とか、バクティの灯火みたいのがあるんですね。これは確実にあります。わたしは――そうですね、勉強会で半分以上はこういう話ばっかりしてるから、それで何回も勉強会来てるような人っていうのは、絶対にあります、それは(笑)。で、それをぜひ育てていってほしい。ね。
 この間も言ったけど。逆にそれがなくなるような、弱まるような環境っていうのは、もしくは状況っていうのは、魔の働きだと考えて、しばらくの間は、そういうところには身を置かない方がいい。
 具体的に言うとですよ、例えばいつも言うように、みんなに「あんまりたくさんの本を読むな」って言ってるけども、例えばある本を読んで、その本を読んでたら、例えばこういう勉強会に来てるときとかは、「やっぱり神しかない。仏陀しかない。信だ!」って思ってたのが、まあこれも宗教的な本だからいいかと思って読んだら、「やっぱり信とかいうのはちょっと……」(笑)、「偏りすぎだと思うんですよね」とか言い出したら、あ、それはもう悪魔の本です。ね(笑)。少なくともその人にとってはね。別の人にとってはその本はいいふうに働く場合もあるけども、少なくとも皆さんにとってはそれは魔の本だと考えてください(笑)。もしくは誰かと話をしてたら、「なんか信なんかどうでもよくなってきた」と。その場合は、その人と話さないでください。ね。将来的には別ですよ。将来的に皆さんの、この間も言ったけど、その炎がね、燃え上がって、もう誰が何をしても消せないと。逆にその炎で周りを包み込むほどの信の強さになったら、どんどん――まあ変な言い方すれば、何やってもいい。もういろんな人と逆に接してね、みんなを炎で飲み込んであげればいい(笑)。

(一同笑)

 でも皆さん今の段階ってちょっと、こういうね、(ろうそくの炎のような、)こういう感じ(笑)。こういう感じです。

(一同笑)

 よく祭典とかやると消しちゃう人いるけど(笑)。

(一同笑)

 ちょっとこう揺れると消えるくらいの小さなものだと。これをまず消えないように大事に大事に保護して、少しずつこう増やしていかなきゃいけない。なんでかっていうと、何度も言うけども、この先に皆さんが純粋な強い信っていうのを得たときに、皆さんが得る利益って計り知れない。
 実はですね、これはまあちょっと仏教とか調べると分かるけど、現代の仏教学っていうのは、現代に伝わってる仏教教学っていうのは、その信っていうものを論理よりも下に置いてるんです。つまり、信を持って修行し、解脱するタイプの修行者っていうのは、論理的な教えを理解して、悟り、解脱するタイプよりも劣ってるっていうかな。レベルが低いみたいに定義しているんだね。でも、それははっきり言ってわたしは、後世のね、学者や修行者たちのカルマが悪いがゆえに、その信の素晴らしさに気づけなかったんだろうなと思う。つまり、一般的にいう信でいったら確かにそれはレベルが低いんです。つまり、「おれはよく分かんないから、とにかく信じてみます」と。これはまあレベルが低いっていうか、それはそれで悪くはないんだけど、それに比べたら当然、論理的にバチバチバチって理解して、「こうだからわたしはやります」――この方がレベルは高いね。で、もう一つ上の信があるんです。これに、少なくとも気づいてる人っていうのは非常に少ない。
 もちろんラーマクリシュナであるとか、あるいは密教の聖者であるとか、ヨーガーナンダであるとか、ああいう人たちっていうのはもちろんそういうところを強調するわけだけど。巷のいろんな普通の本読んでも、そういった信をあまり高くおかない、そういうのはまだ初歩段階なんだっていうのもあるから、そういうのはあまり読まない方がいいですね。
 少なくとも、もう一回言うけども、そういう基礎的な段階として説かれてる信と、それから、皆さんが得なければいけない、本当の純粋な信っていうのは、また別ものなんだと考えてください。

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