解説「王のための四十のドーハー」第三回(4)
【本文】
塩辛い海の水を
雲は汲みあげ、甘く変える
ゆるぎなき利他の心は
この世の毒を、甘露に変える
はい。まあ、これもシンプルですが、とても素晴らしい詩ですね。この例えの一つは、海の水。ね。このサラハの詩の分かりにくいところは、なんていうかな、例えがちょっと分かりにくいのがたくさんあるんだね。それはまあ時代の違いもあるし、インドと日本の違いもあるし。――で、さっき、心の本性の素晴らしい例えとして使われてた海ね。それが今度は悪い例えとして使われてます。ね。つまり海の水。海の水っていうのは塩辛い。だから当然、飲料としては使えません。つまり、喉乾いたからといって海の水は飲めない。海の水を飲んだらもちろん余計に喉乾くね。しかし、雲はくみ上げる。つまり天っていうのは、その海の水を蒸発させ、それを天にくみ上げ、雲となり、で、雨として落とす。つまり、ここで言ってるのは、甘い水。甘い水っていうのは、砂糖とかの甘さじゃなくてね。水って甘いよね。純粋な水っていうのはとても甘い。本来、しょっぱくて飲めたもんじゃなかった海の水を、天の力によってくみ上げられ、雲に変えられ、素晴らしい、甘い、甘露のような雨の水に変わると。この例えだね。
で、同様に、「ゆるぎなき利他の心」。つまり慈悲の心っていうのは、この世の毒を甘露に変える。この世の毒っていうのは、つまり、この世は苦しみに満ちている。ね。この世は苦しみに満ちている。どういうことかっていうと、なんていうかな、ちょっと説明がしづらいけども、この世で生きること、そしてこの世で起きる現象、そしてその現象へのわれわれのアクションだね。これのプロセスのすべては苦しみを生み出す。
どういうことかっていうと、例えばこの世に生きる。まあ、小さいことから大きなことまで、もう言えばきりがないわけだけど、われわれっていうのは例えば、お互いがよく分からない。お互いがよく分からないから、多くの例えばぶつかり合いが生じたり、勘違いが生じたり、いろいろするわけだね。つまり、生まれてからずーっと毎日、死ぬまで自分の思いどおりの人生でいくなんてことはあり得ない。で、当然自分の思いとかイメージ自体が間違ってるから。ね(笑)。間違った思いをこの世に抱き、で、そこで、そうではないいろんな現象のギャップがあったときに、われわれは例えば、ストレートにそこで苦しむこともあるし、あるいはその人とか現象に対して怒りをぶつけるときもある。ね。例えば怒りをぶつけたとするよ。「なんでわたしはこう思ってたのにこうやってくれないんだろう」――怒りが出る。怒りが出ることによって、例えばその人に対してバーッて言ってしまうかもしれない。そうすると言われた方もすごく苦しい。嫌な気持ちがする。あるいは逆に、錯覚によって何かに執着する。執着することによって、それが得られない苦しみと、得たときに、得たのはいいんだけどまたそれを失ってしまうときの苦しみとか、いろいろ苦しみが派生する。で、その執着の対象が、他者ともし競合するようなものだったら、当然そこでの競合の苦しみ、あるいは自分がもし得たときには他者も苦しまなきゃいけないかもしれない。
つまりですよ、この世っていうのはカルマによって、いろんな出来事がいろんなかたちでわれわれの前に流れている。ね。で、人は言うわけです。「この世は苦しいです」と。「この世はほんとにいろんなことがあって苦しいです」と。「わたしはほんとに人間関係もうまくいかないし、お金もないし、なんか天変地異も怖いし、病気にもなるし、ほんとに苦しいです」と。ちょっと待ってくださいと。もちろんそれはカルマによって起きてるわけだけど、ここで修行の、あるいは仏教とかヨーガの対処法っていうのは二つある。一つは、もちろん、じゃあカルマを良くしましょう。これはもちろん基本だね。あなたは人を今まで怒ってばっかりいたから、今人から嫌なことを言われてるんですよ。よって今から人を怒らないようにしましょうと。あるいは、あなたは人を嫉妬してばっかりいたから、人から嫉妬されるんですよと。だからこれからは人のいいところを称賛するようにしましょうと。ね。これはもちろんベースだね。しかしもう一つ、より重要な教えっていうのは、それはあなたのカルマによって、ただ起きてるだけなんだと。それに対して、幸不幸を感じてる、つまりその評価を与えてるのは心であると。よって、あなたの心を変えなさいと。ね。
これは、なんていうか基本だね。つまり、現象には本質的な善悪は何もない。これは分かるよね。例えば、まあ、これは何度も言ってるけど、わたしの子供のころの話――分かりやすい例なんでね、言うけども――わたしは小さいころ、なんか憎しみとかがすごく少ない子供だった。だから誰かから意地悪されたりしても、全く分かんなかったんです。で、その意地悪してきた人に対して、「この人は僕のこと好きなんだ」と、ね(笑)、友好を感じてたんだね。で、そのあとちょっと成長してから「あれ? おれ、いじめられてた」って分かったんだけど、そのときは全く分かんなかった。逆にその状態に幸せを感じていた。ね。つまり、現象というのは――じゃあわたしが大きくなってから「あれ、いじめられてたな」って思ったわけだけど、でもそれは、でもどっちが正しいかっていうと、別にどっちも正しくないんです。一つの現象をどうとらえてるかだけなんだね。
わたしもよく――最近はないけど、昔よく相談を受けたことがある。相談って、ヨーガやってるね、特に女性の生徒さんから、前によく相談を受けたのが、女性同士のいろんな、人間関係がうまくいかないことで相談を受けたことがあった。で、そういうのを何件も受けたんだけど――で、わたしは結構合理的に追究していったわけです。例えば、「誰々さんがわたしに意地悪する」と。で、「どういうことがあったんですか?」って合理的に聞いていくと、断定できないことばっかりなんだね。うん。つまり嫌味言ってきたって言うんだけど、わたしから見ると「それ親切じゃない?」っていう気がするんだね(笑)。つまり、親切と受け取れないこともない。でもその人は嫌味と受け取ってる。ね。じゃあそれはほんとはどっちなんだと。その人がほんとにどういう気持で言ってたかっていうのは、いいですか?――こっち側としては分かりません。ね。分からない。それは永遠に分からない。その人に自分がならなければ分からないよ。でもこちら側がそれをどうとらえるか。頭でどうとらえてようと、何度も言うけど、心っていうのは別のふうにとらえるから。心がそれを苦しいととらえるのか、あるいは心から「ありがとうございます」ってとらえるのか、これは当然その人の心の性質に由来してる。
よって、もう一回話を戻すけど、もちろんカルマを良くするっていうのは大前提です。しかし、もう過去にやってしまったカルマによって、今この周りの現象っていうのは流れています。これは誰も変えられません。じゃあ、過去に悪いことをやったのはしょうがないから、苦しみに耐えればいいんですか?――もちろんそれは一つとしてあるね。それは忍辱の修行。それはそれでオッケー。しかしより素晴らしい、本質的な実践は、そもそもそれ苦しみなのかっていう問題なんだね。あなたはそれを苦しみととらえているが、誰がそれを苦しみと決めたんだと。それはあなたがそう思ってるだけだろうと。
で、ここでいろんな考え方が登場する。それはまあ、皆さんが例えば『入菩提行論』なり『バガヴァッド・ギーター』なりを読んで、いろいろ一つ一つ対処するのは、それはそれでいいと思います。「あ、こうしたときはこういうふうに考えよう」と。ね。しかし、まあ、そういうのを抜きにして、大ざっぱに、一つの原則を言うならば、慈悲心なんです。あるいは利他心なんです。つまり慈悲心や利他心を、揺るぎなき、つまり究極の、全く揺るがないものに自分の中の利他心や慈悲心を高めたならば、その人にとっては、ほかの人がそれを苦悩だと思うような現象、あるいは自分の中でそれによって怒りや執着が湧き起こってしまうような現象が周りに起きても、すべてはただ至福になる。すべてはなんの問題もない、素晴らしい要素に変わるんだね。
もちろんそれは、最終的にそうなるのは最終段階。つまり完全に悟りを得たときだね。で、これはわれわれは一つの、なんていうか、指針としてとらえなきゃいけないんで、わたしたちはまだ、そこまで悟ってはいない。悟ってはないけども、この教えを学んでね、つまりわたしは今この世で苦しいことはいっぱいあるけども、それは、ほんとにそれが苦しいわけじゃないんだと。わたしの中の誤った心の働きによってそう見えてるにすぎない。または、わたしの中の誤った心の働きによって、いろんなものに執着しちゃったり、いろんなものに怒りを持っちゃったりしてるにすぎない。よってそれを、より優れた、より本質的なものの見方によって、この世界を変えてしまおうと。
つまりこの世界をつくってるのはほかでもない、自分自身なんです。物事は、何度も言うけど、ただ動いてるにすぎない。そうだな、例えばさ、絵とかさ、あるいはアニメーションとかで、どうにでも見える絵とかあるよね。見方によってこれは怪物にも見えるけど、ちょっと見方の焦点をずらしたら、素晴らしい、美しい女性に見えたりとか、いろいろそういう絵とかあるよね。あるいはアニメとかもそういうのあるかもしれない。例えばそういうのを見て「ああ、怪物だ」って思ってる。「え、怪物? いや、これは美しい女の人ですよ」と。で、その見方のポイントをちょっと変えると「あ、ほんとだ」と。「これは美しい女の人だったのか」と。でも、じゃあその実体はなんですか。実体は、全く同じ線だったり点だったりするわけです。これがカルマ。この点とか線にはなんの意味もないよね。その点とか線に怪物っていう概念を与えてるのは自分だし、あるいは美しい女性っていう概念を与えてるのも自分なんです。同様に、われわれの周りに起こってるすべての現象は、それ自体ではなんの意味もないんです。ただ――つまりまさにカルマだから、カルマっていうのは、ね、前から何度か使ってる例えで言うとね、例えばゴムボールを押しましたと。押したゴムボールは返らなきゃいけないんです。これがカルマです。ただそれだけなんです。つまり宇宙においてわれわれが何か動いたことによって、ひずみが生じます。ひずみというのは返らなきゃいけない。元に戻らなきゃいけない。この働きにすぎない。これによってわれわれの周りに何かが起きている。でもこれは、ただの何かなんです。ね。なんの、なんていうか、意味合いもない、ただの何かなんです。で、何度も言うけど、それに意味合いを持たせてるのはわたしたちの心なんです。
で、それを、教えと縁があり、素晴らしい教えと巡り合ったわれわれは、まだ悟ってはいないんだけど、意識的に、正しい見方――それは、一番オーソドックスなのが、ここに書かれてる慈悲の心。つまり心の中で慈悲っていうのを究極に高めると、すべてがその人にとって至福に変わります、最終的には。もしくは、また全然別のやり方としては、バクティヨーガのやり方ね。いつも言うように、すべては神の愛ですと。あるいは、すべては神ですでもいい。すべては神の現われなんですよ。あるいは、ここでわたしもよく言うように、ただ神だけがお与えになり、神だけがお奪いになるんですと。すべては完璧ですと。なんの問題もありません。これでもいいね。こういった見方を、最初は無理やりなんだけど、徐々に自分の中に浸透させていく。何かがあるたびにそういう見方を一つ取り出してやる。もしくは、基本的な慈悲を徹底的に自分の中に蓄える。常に慈悲、慈悲っていう感じで、人々の幸福を願い続け、生き続ける。このようにして自分側の心が純化されたならば、その人に何が起ころうと、その人の人生っていうのは至福に満ちます。客観的にどう見えようとね。客観的には、「なんかあの人、病気がちで、お金もなくて、なんか不幸なことばっかり起きて大変だね」と、「お祓い行った方がいいんじゃない?」とか思われるかもしれないけど(笑)、本人は至福に満ちてる。ね。それは過去のカルマによっていろんなことが起きるのはしょうがないんだけど、でもその人の世界の見え方っていうのは全く、ほかの人とは違ってる、っていう状態までならなきゃいけない。
はい。で、もう一回言うけど、その最も基本となるものっていうのは利他心、慈悲心ですよっていうところですね。
まあ、これはだから『入菩提行論』とかの世界にもとても通じるところがある。つまり、いかにわれわれが幸せになるか、どうなったらわたしは幸せになるんでしょうか?のポイントは、慈悲を強めることにあるんです。われわれが慈悲心が強まれば強まるほど、幸せになるんです。それは単純なカルマとかの話じゃないよ。慈悲によって、それが返ってきて幸せになるっていう話じゃないんです。慈悲心――つまりこれはトンレン、慈悲の瞑想の世界にも通じるね。つまり慈悲の瞑想をやると、いつも言うように、慈悲の瞑想をやってる人自体がとても幸せになりますよと。それはカルマとかそういう話じゃなくて、自分よりも他者を大事にする、自分よりも他者の幸福を願う、この気持ちが自分の中に、ちょっとでもいいから、増大すればしただけ、自分の幸福感は増すんです。端的に言うと、そういう仕組みになってるんです。ね。つまりエゴが強ければ強いほど、この世っていうのは苦悩が増すんです。でも人間はばかだから、逆に考えてるんだね。エゴがあった方が幸福になれると思ってる。で、人の幸福を願うっていうことは自分が不幸になることだと思っちゃってる。潜在的にですよ。頭ではどう考えてようと、心は潜在的にそう思ってる。だからそれを逆転させなきゃいけない。で、慈悲がほんとに自分の中に高まってきたら、幸福感は増します。そして逆に苦悩は消えていきます。
小さいことで言うとね、当然、エゴが強いほど心配は強まるよね。これは分かるでしょ? われわれっていうのはエゴの塊だから、もうちっちゃなことで心配します。ね。「あ! これ、こんなことやってしまった。これによって明日どうなってしまうんだろう?」「あ! こういうことが起きてしまった。わたしは今日会社に行ったらどうなってしまうんだろう?」――どうでもいいじゃないかと。それが例えば他人に起きたとしたらどうでもいい問題なのに、自分に起きたことだったらちょっとのことでもう、世界が終わったような気持ちになる。どうでもいいじゃないかと。例えばある人が、ちょっと言葉の行き違いで、ちょっと自分を罵ってきたと。「あ!」――世界が真っ暗になる。「わたしはあの人に嫌われてしまったんじゃないか? ああ、わたしはなんかいろいろ言いふらされてしまうんじゃないか、ああ……」――どうでもいいじゃないかと(笑)。ね。つまり自分をあまりにも大切にし過ぎるがゆえに、そういう苦悩が増すんだね。でもこの人がもし、慈悲心をちょっとでも高めてたら、例えば誤解されてしまった。誤解されてしまったけど、でもあの人が幸せならそれでいいだろうと。あの人はわたしのことをいろいろ言いふらすかもしれないが、それで彼が気が済むならそれはとても素晴らしいと。それはもう認めますと。わたしが何か言いふらされたとしたらそれはわたしのカルマだから、全く問題ない、というような気持ちを普段からいろんな場面でね、修習してたら、当然自分のストレスっていうか、苦悩は当然減るね。小さな問題でいうとですよ。
だから、自分を大事にする気持ちがどんどん減っていって、他者を大事にする気持ちが増えていけば増えていくほど、われわれの心は非常に余裕ができます。広がりを持ちます。で、苦の因が減っていきます。論理的に言うとね。でも実際はこういう論理的な話だけじゃないんです。もうほんとに、論理的には表わせないけども、慈悲心が増すと幸福感が増すんです。で、最終的にはここに書かれてるように、この世のあらゆる苦悩――まあ「毒」って書いてあるけど、あらゆる苦悩の因となるようなものも、すべて甘露になってしまう。幸福の、至福の因になってしまうっていうことですね。
-
前の記事
解説「菩薩の生き方」第六回(5) -
次の記事
ヨーガ講習会のお知らせ(長野・福岡・名古屋)