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「私が見たアドブターナンダ」より抜粋(12)

◎欲望との戦いと克服

 私たちはこのトピックについて、あるラトゥの信者の日記からいくつかを抜粋し、下記に記した。それらは全く啓発的である。

ラトゥ「なぜだ? これらはただの言葉に過ぎない。どうしてその重要性が理解できないのか。
 ねえ、今心の中にある欲望や楽しみへの誘惑は、すでに過ぎ去ったものじゃないか? それらは心に表面化することもある。そして、それらは深く潜り過ぎていて、本当に過去にあったものなのだろうかと、さらには本当に現在あるものなのだろうかと、疑いたくなることもある。
 君たちが主に近づけば近づくほど、これらすべての固定概念は隠れ家から去っていき、本当の色が現われる。
 君たちの体と心が清く神聖になるにつれて、過去生で為した何百もの行為の結果である欠点が、まるで御名という熱に運ばれるかのようにして、泡のように心の表面に浮かび上がってくる。
 それは死に物狂いの戦いだ。その御名の熱が、それらの欲望を完全に体の外へと追いやる。欲望の完敗である。どうして欲望が御名の影響力に立ち向かえるだろうか?」

ラトゥ(別の場所で)「愛情と誘惑は非常に賢い奴らだ。人の心を奪ってしまうばかりか、そのうえその心の手足までも手中に収めてしまうのだ。――心の手足とは、五つの『行為器官』と五つの『知覚器官』のことだ。楽しみへの欲望が心の中に生じたそのときには、感覚器官はすでに指令を遂行するために沸き立っているのがわかるだろう。それはこの理由によるものなのだ。
 目は美しいものを見たがり、耳は声や音楽を聞きたがり、手は物を握りたがり、足はどこかに向かいたがる。――感覚器官は興奮し過ぎて、まるで肉体を飛び出さんばかりだ。

 敵はすべての感覚器官に全力で臨戦態勢を取らせておき、チャンスを見ては、その瞬間に快楽を享受する。そして心――それはどのように行動するか知っているか? 心は想像力を使ってロマンチックな絵を描く。そう、この想像力こそが、人間の最大の敵なのだ。それは最大の誘惑者だ。感覚の楽しみの鮮やかなイメージを描いて人を誘惑し、自制心を破壊する、それが想像力だ。
 自制心の導きを失うことで、人は思うがままに誘惑を受け入れる。
 だから私は言うのだ、もしあなたが誘惑を征服したいのなら、むなしい空想にふけるのをやめ、楽しみについての間違った観念を作るのをやめよ、と。」
    

 この信者の日記の他の場面で、ラトゥ・マハラージはこのトピックについて次のように説いている。

「それは御名だ。御名の力が、心の生来の傾向である感覚的快楽を追い求める傾向を、高みへと向けさせるのだ。心の白昼夢やロマンティックな世界を創り出すイメージを、その根っこから断ってくれる。
 わたしの子供達よ、心はどこにあるのか、誰か知っているか?
 われわれがその存在を自覚するのは、疑念とイメージという創造物を通じてだ。
 心から疑念とイメージがなくなると――それらの創造物が御名に吸収されてなくなると、心はすべてのけがれや外面的なものから完全に純粋になる。そしてその純粋な心の中で、サット――つまり、すべてに遍在する全智であるわれわれの本性がきらめくのだよ。」

 同じ日の日記から、もう一つの出来事を引用させてもらうことにしよう。

「師はよくおっしゃったものだ。

『知っているか? 霊的訓練は柱登りみたいなものだ。もし柱に油が塗ってあったら登れない。油によってべたべたになっていると、登ることができないだろう。お金と愛欲に魅かれることは、油だ。その影響が取り除かれない限り、霊性の修行は不可能なのだよ。平静な心と放棄は、滑りやすさを取り除いて、登ることを可能にする石灰の粉のようなものだ。』

 しかし、平静な心や放棄はそんなに簡単に手に入るものだろうか? 心には、感覚的喜びの悪影響をしっかりと、そして繰り返し理解させなければならない。繰り返し繰り返し、高潔な思考と感情と行為によって生じる果報を説かねばならないのだ。
 しかしそれでも、それらだけでは、外に向って行こうとする大変激しい心の生来の傾向に対抗するに十分な力にはならない。
 心が熱中するには、何か楽しいと感じる経験が与えられなければならない。しかし、高潔なもので最初から楽しいものはない。それは、修習(繰り返し実践すること)と、(神の)連想によって、楽しいものになっていくのだから。
 すべての不変の歓喜の源である御名を繰り返し唱えることと、それに伴う神の御姿の連想が、危険な生来の傾向を中和するのに必要な経験を生み出す。この御名の詠唱は、持続的に行われなければならない。その者は、起きている間中、不断に神の御名で酩酊している状態であるべきなんだ。
 心には、一時間か二時間しか世俗的な事柄に関わることを許してはいけない。あなたたちが実際に行なっているのは、ちょうどこの逆なんじゃないか?
 もしこの助言に従うなら、世俗の事象が心を引きずり回す力が弱まることに気が付くだろう。
 しかし、あなたたちはこう言うに決まってる。――『われわれ在家の者に、一体どうやって、それ程の時間を取ることができましょうか?』とね。」

 一人の信者がラトゥ・マハラジに質問した。

「どうすれば、性欲を制御することが――いえ、もっと言えば、どうすれば完全に性欲に振り回されなくなるのでしょうか?」

 ラトゥ・マハラジはこう答えた。

「一つのことをやりなさい。師の写真を持ち歩くのだ。不吉な衝動が起こったときはいつでも、一心に祈るような気持ちでそれを眺めなさい。すべてのくだらない欲望がかき消されるのが分かるだろう。それをやりなさい!」

 そして、もう一人の信者にはこう仰った。

「あなたは、愛著や欲望がそう簡単にわたし達から離れると思うかね? この件に関しては、常に師や理想神を想起することが、大変役に立つ、それらの捨断に最も効果のある手段だと言うべきだろう。
 これを成就した者は、目的に向って十分進歩したのだと言える。
 主こそが、あなたに正しい智慧をお与えになり、あなたの欲望を有益なものへと変容してくださるのだ。
 主を信頼しなさい、主の言葉に不屈の信を持ちなさい、主はあなたがそれらを乗り越えるための強さをあなたにお与えくださる事が分かるだろう。つまり、主はあなたが成長するのに役に立つ状況を生み出してくださるのだ。あなたが心から主を避難所とするならば、あなたのすべての艱難は取り除かれる。しかしそれには、あなたの帰依が心からのものでなくてはならない。」

 また別の日に、彼は信者にこう語った。

「ねえ、人の中に自己中心主義(エゴイズム)がある限り、その欲望と熱情は無くなりはしない。彼はそれらにしっかりつかまっている。だから、まず最初に自己中心主義を完全に滅却しなさい。そうすれば、君のすべてのトラブルは終焉を迎えるだろう。」

信者「どのようにすれば、自己中心主義は消え去りますか?」

ラトゥ・マハラジ「自己中心主義とは何か?――『わたしは他者より優っている』――この感覚じゃないか? これを弱め、取るに足らないことだと見る努力をしなさい。
 この優越感が生じる度に、このように考えなさい。――『馬鹿者、このことや他の側面で、おまえよりずっと優れた人達はいないというのか? 彼らに比べれば、おまえはどれほど取るに足らない存在に見えることか! おまえの能力がどれほどのものだというのだ? 今までどれほど頻繁に、おまえは失敗してきたか? 
 わたしは、この世に自発的に来たのか、それともいいように操られて来たのか? 
 わたしの周りのこれらの人々は、わたしが集めたのか、それとも状況によって引き寄せられて来たのか? 
 この会社や仕事がわたしを裕福にし、何千人もの生活費を賄う機会をわたしに与えてくれた。わたしはそれをどうやって手に入れたのだ? 状況がうまく重なり、助力者が加わって、成功することができたんじゃないのか? 
 わたしはこれらのことにおいて、ちっぽけな要素でしかないのではないのか? 自惚れる余地などないのではないか? 
 わたしは、主に駆り立てられてこの世にやって来たし、わたしは主の命令でここにいる。主がお望みになれば、その瞬間にわたしはこの人生から立ち去らねばならないだろう。わたしは主が生み出した状況や人々にこんなにも完全に依存しているというのに、一体わたしに何かを自慢する権利があるのだろうか?』
 もし君が、君の自己中心主義をこのような見方で見たならば、それは必ず恥じ入って消え去るだろう。分かったかな?」

 ラトゥ・マハラジは、自身の欲望を完全に調伏した。しかしそこに至るまでに、彼は数々の障害に立ち向かい、敵との格闘の過程において悲痛の涙を流したのだ。
 以下は、彼自身が語った、その一つの例である。

「ねえ、ある日わたしは、これらの獰猛な欲望にあまりにも圧倒されて、師の下へ走り、自らを救ったのだよ。
 心が抵抗して、主の御名を唱えることは不可能に思えた。わたしが師の御前に来た瞬間、師は状況を察知してわたしをお救いくださった。後から、師はこう仰ってわたしを慰めてくださった。

『そう、それらは来ては去る。しかし、主の御名を唱えることを決して諦めてはいけないよ。』」

 もうひとつの例を見てみよう。
 その日も、ラトゥの識別と冷静さの能力は、何度も何度も使い物にならない状態になっていた。師がその場に現れて、彼を危険から救い出された。下記は、年長のゴーパール(後のスワミ・アドワイターナンダ)から聞いた話である。

「ラトゥはわれわれ全員の中で最も誠実であった。彼は自分の弱点を包み隠さず師に打ち明けることができた。
 彼は、普通、人が決して語らないような自身の弱点を師に語ることに、何の躊躇いも無かった。
 ある日ラトゥは瞑想を中断してアーサナ(瞑想用の座)の上に立った。ラトゥの目には涙が溢れ、他の誰一人として理解できないことで、ぶつぶつ不平をこぼし続けていた。
 まさにそのとき、そこに師が姿をみせた。
 すると、ラトゥの泣き声は十倍になった。師は仰った。
『ごらん、わたしの息子よ、もっと人気の無いところへ行って、そこでアーサナを拡げなさい。そうすれば、女性の視線がお前に注がれることはないのだから。』」

 また別の例も見てみよう。煩悩と苦闘している最中にラトゥは、天から「あなたは彼の子じゃないの?」という声が響き渡ったのを聞き、今にも圧倒されてしまいそうになった。
 新鮮な力の奔流によって、すべての幻想が一瞬にして消え去り、しばらく経つと、師が現れてこう仰った。

「我が息子よ、今日は助けられて幸運だったね。」

 師の言葉に対する揺るぎない信と共に、ラトゥは、至難の道であるブラフマチャリヤー(禁欲修行)の道を歩んだのだった。彼の師に対する信頼は一瞬たりとも衰えることは無かった。そして、師のブラフマチャリヤーの考え方は、正統派の意見とはかなり違っていた。
 彼にとっての禁欲修行とは、単に精子の保持のみならず、その者が、ブラフマンの力であるブラフマン・シャクティーに浸っていると常に自覚していることによって精子を神聖化するというものだった。
 この確信は、主の御名への正真正銘の愛を培った者にとっては、永遠のものとなる。なぜなら、その御名は神そのものであるからである。
 そしてラトゥーは、神の御名という船で、ブラフマチャリヤーという荒れ狂う海を安全に渡ったのだった。

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