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解説「王のための四十のドーハー」第三回(3)

 はい、もう一つのポイント。もう一つのポイントはまた全然違う観点で、われわれの心の本質、心の本性っていうのは、もう一回言うけど、まさに海のようなものだと。それは広大であって――もちろん海というのは限界があるけど、一応例えなので、実際は限界がない。限界がなく、無限の恵みに満ちてる素晴らしいものなんだね。でもわれわれは今、それを忘れ去っています。じゃあ、忘れ去って何にとらわれてるんだっていうと、それはまさに経験なんだね、経験。ここでいう経験っていうのは、さっきの話とちょっと違って、修行経験っていう意味じゃなくて、われわれが生まれてから今まで、あるいは過去世の話もすれば、つまり本来純粋だったわれわれが、純粋じゃなくなってから、つまりこの輪廻の経験をし始めてから今までの経験です。これにわれわれはもうとらわれてしまってる。
 経験にとらわれるっていうのは、何度もここで話してるから分かるよね。例えばある異性が優しくしてくれた。また二回目、その異性が優しくしてくれた。それが何回か続くと、われわれはそのタイプの異性はわたしにとってとても幸せを与えてくれる存在だっていう固定観念を持ってしまいます。これが経験へのとらわれなんだね。あるいはもちろん逆もある。ある丸顔の男がわたしに意地悪をした。これが何回か続くと、「わたしは丸顔は嫌い」っていう感じになる。これはまあ分かりやすい例を挙げたわけだけど、こういうことが小さなことから大きなことまで、われわれの周りにはいっぱいある。
 過去世のこととかは普通は思い出せないから、今生だけで考えると、今生われわれは、もともとは純粋な子供だった。ね。つまり無垢の、なんの固定観念もない状態でこの世界を見ていた。しかしだんだんいろんな経験をするうちに、その経験にとらわれるようになります。例えばこういうことをやると、なんか怒られるなとか。簡単に言えばね。こういうことをやると、なんかいいことが起きるなとか。それはそのときはそうだったけど、それはいろんなカルマによってそうなってるだけであって、絶対的な法則性ではない。しかしわれわれは経験に引きずられるんだね。経験に引きずられて、そこから、つまり愛着と嫌悪っていうのが出てきます。つまり実はなんの真実性もない、愛着と嫌悪が出るんだね。ほんとにそれが自分を幸福にしてくれるものだったらいいんだよ。でも実はそうじゃない。そうじゃないけど、ただ経験によって、「それはわたしを幸福にするから執着する」と。で、経験によって、「それはわたしを不幸にするから嫌いだ」と。これがガチガチに固まります。
 で、これは、なんていうかな、頭脳では超えられない壁なんです。頭脳では超えられない壁って何かっていうと、それはみんな分かるでしょ? 例えば、そうだな――性欲がすごく強い人がいたとしてね、「ああ、あなた、性欲は追いかけるとエネルギーもロスするし、エネルギーがスワーディシュターナ・チャクラに集中して動物的になるし、それは知性も落ちるし、あまり良くないですよ」――で、それはもちろん頭では理解する。「そうか、わたしは崇高な道に入ったんだから、性欲を追いかけるのはやめよう」と。でもものすごく性欲が強い人がいたら、やっぱりどうしても性欲を追いかけてしまう。それはまさに、経験へのとらわれなんだね。習性、つまり心が完全に、過去に「性欲というのは素晴らしいんだ」っていうことをあまりにも修習し過ぎたがために、もうそっちから抜けられなくなってしまってる。つまり頭では真理を思っていても、心はその経験っていうものを完全に信じてしまってるんだね。
 で、これが、いろんなことがあるわけです。で、これが今のわれわれの状態。しかし、われわれの心の本性に比べたら、今われわれが、なんていうかな、とらわれてる、その過去世からの経験なんてものは、牛の足跡にたまった水たまりのようなもんだと。
 それは、つまり二つ意味があって、一つはさっきの例えでも言ったように、大したことはない。つまり、価値はあまりない。なんの恵みもないし、汚いし、小さいし、っていうのが一つある。で、もう一つは、だから、やがては枯れ尽きますと。なぜかというと、本性ではないから。つまりわれわれが性欲が強いとか、怒りが強いとか、執着が強いっていったって、それは、心の本性がそうなわけじゃないんだね。心の本性――われわれの心の本性はもともと、ブッダのような、素晴らしい智慧と慈悲を兼ね備えている。それがわれわれの本当の心ですと。しかしその上に、経験という小さな水たまりのようなものができちゃって、今われわれはそこに集中してるんです。で、偉大なブッダとか師匠が現われて、「おまえ、そっちじゃない」と。「それは牛の足跡だ」と。「おまえの心の本質は海なんだ」って言って連れていこうとしても、どうしてもそっちに執着してしまってる。でもそこで縁のある魂は一生懸命修行して、牛の足跡への執着からなんとか逃れようと頑張る。でもそこで、例えば、一生懸命修行してるんだけど、なかなか自分を超えられないと。あるいは一生懸命修行してるんだけど、なかなか進歩がないように感じる、という人もいるかもしれない。それに対してはこの教えを考えればいい。
 つまり、確かに今われわれがなんとかしようとしてる自分の心のとらわれっていうのは、なかなか大変なものがあるように感じるかもしれないけども、でもそれは、心の本性から見たらね、牛の水たまりのようなもんであって、われわれが修行を頑張れば――これはここにも例えとしては出てないけど、修行っていうのは、例えば太陽の熱のようなもんだね。修行することによって、われわれは、太陽の熱をガンガン燃やすと。それによって、われわれの経験のとらわれなんていうものは、枯れ尽きてしまいますよと。しかもそれは、あっという間に枯れ尽きますよと。なぜかというと、何度も言うけども、本物ではないから。たかだか、蓄積された、ちょっと蓄積されたものにすぎない。
 これは、そうですね、現実的な話で言うと、皆さんが一生懸命修行頑張って――まあここにいるみんなっていうのは、それぞれの修行歴がいろいろあるけども、一生懸命修行頑張って一年、二年、三年、四年と修行して、何度も何度も自分を乗り越える経験をしてれば、納得がいきます。でもその経験がないと、まだ納得がいかないかもしれない。
 例えば、まあ、わたしも前からいろんな例で言ってるけどね、例えば、そうだな、わたし昔、すごくタマスに覆われてたときがあって、で、思索がなかなかできないときがあった。つまり深くものを考えて瞑想するのが苦手だったときがあった。で、そのときにわたしは、徹底的に教学をしたんです。つまり経典とかを、もう、ものすごく集中していっぱい読んだ。で、それが何カ月とか経って、あるときいきなりパッと深い思索ができるようになった。例えばね。そういうのが一つ二つ、三つとこう重なってくると、あ、確かに今わたしは多くの悪いものを持ってるが、それは正しい修行によって変われるんだと。人間っていうのは変われるんだと。修行っていうのは、わたしのどんな「これはちょっと変われないんじゃない?」っていうようなものでも変えていけるんだっていうことを――もちろんね、一気に全部は変えられないよ。例えば百個ぐらい自分に悪いものがあったとして、修行やってたらすぐに「あ、百個全部なくなりました!」ってはならないんだけど、それは例えば、一年たったら一個目消えましたと。二個目は三カ月ぐらいで消えましたと。それはいろいろあるでしょう。三個目は一週間で消えました。四個目はまた五年ぐらいかかりましたとか、いろいろあるかもしれないけど、でも消えるんです。つまり人間は変われるんです。
 修行っていうのは、われわれのどんな、こびりついた悪癖も、浄化することができる。もちろん後退もあるよ。修行っていうのは、なんていうか、なかなか厳しいから、「あ!素晴らしい境地に達した」「あ!悪いものが一つ減った」――でもまた壁が来て、また若干戻るときもある。で、また進むと。でもトータルでいうと、いろんな、行きつ戻りつつ進みながら行くわけだけど、でもトータルでいうと、いろんなものが自分の中で浄化されている。
 こういう経験を何度も何度もしてると、まだ自分の中にある浄化されてない部分に対しても、まあ、確信が持てます。つまりわたしはこんなに今ひどい状態をいっぱい持ってるけど、でも今までの自分の修行を振り返ると、これも落ちた、これも落ちた、これも落ちた。よって、これも落ちるに違いない、ということが分かってきます。これがまあ、なんていうかな、現実的にいうとこ、この例えの一つの例だね。
 だから自分の中で、修行の中で自分が――まあ、ある程度長く修行してる人はね、ここは肯定的にとらえて、自分の過去を振り返って、修行を始めてから今まで、自分が変わったことを見つける。自分の中で浄化された部分を見つけて、そこは卑屈にならずに、素直に喜ぶ。わたしはこれがこんなに変わったと。こんなに素晴らしい進歩があったと。それをちゃんと自分の中で喜んで、「よって、今自分が持ってる悪い部分も必ず浄化されるんだ」っていう認識を持ったらいいね。
 で、まだ修行歴が浅くて、まだあまりそういう自分が変わっていった変化の経験がないっていう人は、なんていうかな、それを信じるしかないね、まずはね。つまりこれは、サラハも言ってるように、もしくは勉強会で先生も言ったように、必ず修行っていうのは、それだけの力があると。そして、わたしが今引っ掛かってる、わたしの心のその引っ掛かりなんてものは、あるいはけがれなんてものは、何度も言うけども、広大な心の本性に比べたら、牛の足の水たまりのようなもんだと。だから大したことはないんだと。ね。大したことないと言いつつも修行は大変なんだけど。でも大したことはないんだと。頑張れば必ず消えるんだ、という確信をまず持つ必要があるね。

 はい、じゃあ、ここまでまた何か質問とかありますか? 
 だいたいなんか、わたしがいろんな生徒さんを見てきて、で、いろいろ話してきた経験では、自分の進歩って結構ね、分かんないんだね。うん。前も何かのときに言ったけど、昔、まだカイラスが始まってそんなに時間がたってないころに、Yさんが、最初なんか、スポーツ的な感じでヨーガをやりに来て。で、それから一年ぐらいたった。一年ぐらいたったころに、なんか真剣な顔でわたしにこう相談してきて、「先生、わたしもうヨーガやって一年くらいたつんですけど、何も進歩がないんです」って言うんだね。でもわたしは、そのYさんを見てて、Yさんが最初に来たときに、ちょっとわたしが覚えてたのが、その相談としてね、スポーツ的にヨーガやりたいっていうのもあるんだけど、もう一つ、自分はすごく怒りっぽくて困るって言ってたんだね。もう何かっていうとカッカしてしまう――っていうことをわたしに言ってきた。でも確かにそのときはそんな感じがしたんです。なんかちょっと怒りっぽいっていうか。ちょっとこう、常にムカムカしてるようなフィーリングがあった。でもヨーガを進めるうちに、どんどん柔らかくなっていった。で、全然違う感じになっていったんだね。だからそれを言ったわけです。「いや、でもあなた、ここに初めて来たときに、もう自分は怒りっぽくて困るって言ってたけど、今、全然そんなことないじゃないですか」と。そうするとYさんは、「あ! そうですね」と(笑)。「よく考えたらそうですね。わたし、そんなこと言ってましたね」と。つまり自分がそれで悩んでたっていうことを忘れてるんです。あのころ自分は怒りっぽくて困ってましたっていうことを忘れてる。
 だいたい、なんていうかな、苦しみっていうのは覚えてるけど、怒りっぽいっていうのはさ、自分が怒りっぽくて困るのは周りだから(笑)。あんまりそれが改善されても、自分としてはそんなに実感はないのかもしれない。だから自分のことってなかなかよく分かんない。周りから見ると相当変わったっていうのがある。いや、相当変わったねと。わたしから見ると、だいたい、ここでね、もちろん程度の差はあれね、長くやってる人っていうのは、やっぱり相当変わってます。相当変化してる。全然違う人になってきてるって感じがするね。でもやっぱり自分ではよく分からない。っていうのは、自分っていうのはいつも自分と一緒にいるから(笑)。自分の進歩っていうのは、今日明日でパッて変わるわけじゃないから。毎日毎日自分と向き合いつつ、ちょっとずつ変わってるから、なかなか分からない。でも周りから見るとすごく分かるんだね、変化っていうのはね。
 だから自分自身に対しても、もう一回言うけども、あまり、なんていうかな、卑屈にならずに、ちょっとでも自分が昔と比べて変わったなっていう部分があるとしたら、そこを認めてあげて、それは喜んだらいいね。で、それによって――まあ、つまりそれによって慢心に陥るんじゃなくて、それによって修行の素晴らしさを確信するんです。「あ、だから修行って素晴らしいんだな」と。「わたしでもこんなに変われるんだから素晴らしい」と。それを、ちゃんと一個一個見つけていったらいいね。見逃さずに。
 わたしももちろん、過去を振り返ると、相当変わったと思うね。過去っていうのはもちろん、修行始めたころのね、中学生とか高校生とかのころから比べてね。相当いろんな部分が、当たり前だけども(笑)、変化したし進化したし、やっぱり修行っていうのはすごいと思う。で、何度も言うけど、わたしが今まで教えてきたいろんな人たちを見ても、やっぱり、変化とか進化っていうのは素晴らしい。しかしなかなか自分では分からない部分がある。特に、ちょっとアナーハタ的な人ってね、この辺で詰まってる人って、自分をちょっと卑下する傾向があるから、周りから見ると、「え! あなたそんなに変わったのに」って言っても「わたしは全然駄目なんです」ってなりがちなところがあるから、そこら辺はちゃんと自分を認めてあげるところは認めてあげる。そしてもう一回言うけども、その修行の力、修行の素晴らしさっていうものを確信するっていうかな、そのプロセスが大事だと思いますね。

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