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解説「王のための四十のドーハー」第一回(7)



【本文】

たとえ家の中に多くのランプが灯っていても
目の見えない者にとっては、そこは暗闇のまま
生来の智慧はもともとすべてに行きわたり、すぐ近くにあるが
無智のために、常に遠い



 はい。これはまず、家の中に多くのランプが灯っている――つまり、現代でいうとね、家の中が電気で煌々と照らされてると。しかし、もともと盲目、目の見えない者がそこにいるとしたら、当然、家の中が明るかろうが暗かろうが、常に暗い。同じように、「生来の智慧はもともとすべてに行きわたり、すぐ近くにある。しかし無智のために、常に遠い。」――これが今の例えと同じだっていうことだね。
 生来の智慧――つまりわれわれは、いつも言うように、もともと悟ってる。まあ、よく仏性とかいうけど、仏性っていうのは、これもいつも言うように、われわれの中に仏陀の種みたいなのがあって、それを育てましょうねっていうんじゃないんです。もともと完璧な仏陀の悟りがあるんです、われわれには。われわれっていうよりも、ここに書いてあるように、すべてに行き渡ってるんです。つまりこの世のすべてというか、あらゆるものに完全な仏陀の智慧は行き渡ってる。
 そして「近い」って書いてあるね。近いっていうのは、これは非常に便宜的表現だけど、近いっていうのは、ここにあるっていうんじゃないんだよ。「あ、近いな」じゃないよ。つまり、もう変わらないんです、自分そのものと。それを「近い」って表現してる。つまりどこか遠くにあるんじゃない。どっか遠くにあるものを、ウワーッていって「捕まえた、仏陀の智慧だ!」っていうんじゃないんです。もともとあるんです、ここに。
 だからそういう意味では修行っていうのは、培うもんじゃない。どちらかというと、剥ぎ取るものです。意味分かるかな? つまり、「おれは智慧がない。よし、智慧を培おう! 一個、二個、三個、グッグッグッ――あ、智慧だ!」じゃない。剥ぎ取るんだね。つまり、おれは智慧の塊なのに、完全に分かんなくなっちゃってる(笑)。つまり分かんなくなっちゃってる原因を剥ぎ取っていく。修行っていうのはね。やってることは、もともとないものをつかもうとするんじゃなくて、もともとそうなんだから、それに気付かなきゃいけない。そのために邪魔となってるものを剥ぎ取る作業です。
 だからよく、マハームドラーとかゾクチェンとかの表現としてあるのは、「裸になれ」と。よくニンマ派とかのね、原初仏としてサマンタバドラ、クンツサンポっていうのがいて、この絵っていうのは――密教の絵ってよく男性の神と女性の神が抱き合ってる絵が多い。それは智慧と方便の合一とかいろんな深い意味があるんだけど、まあ普通はそのきらびやかな、なんていうかな、インド風の装身具を着けてね、神々が抱き合ってたりするんだけど、このニンマ派のクンツサンポっていう、原初の仏陀っていわれるものは、どっちも素っ裸なんだね。素っ裸で抱き合ってる。で、これがまさに、すべてを脱ぎ去った状態、裸の智慧の状態を表わしてる。
 だからわれわれは、脱ぎ去らなきゃいけないんです。だから修行っていうのは面白いもので、脱ぎ去らなきゃいけないんだけど、逆に着る人がいるんだね(笑)。着ることと勘違いする人がいる。つまり例えば、もちろん教学をして教えを学ばなきゃいけないんだけど、この教学はなぜしてるのかっていうと、自分にたまった間違った思いを破壊するために教学するわけです。でも人によっては、その教学したことによってプライドが高まって、よく一般的な仏教マニアとか仏教オタクとかにいるけども、「おれはこんなに経典を知ってるんだ」「おまえは知らないだろ」と。インターネットとかでよくそういう場面があるけども。仏教徒同士でけんかしてる。「おまえが言ってるのは間違ってる!」――これはだから着ちゃった例です(笑)。修行してるつもりなんだけど、より、例えば慢心であるとか、エゴの衣をより着ちゃってる場合。そうじゃなくて、脱いでいかなきゃいけない。エゴを一つ一つ削ぎ落としていかなきゃいけないわけだけど。それによって、自分がもともと持ってるものに到達しなきゃいけない。
 別の例えで言うとさ、地球を探して旅する男みたいなもんです。地球を探して旅する男っていうのは、「地球はどこだ?」っていって旅をする。で、その人がいろんなことを乗り越えて、ワーッて行って、最終的に「この先が地球か」と。で、ある山を越えて、谷を越えて、で、そうだな、トンネルを越え、「さあ、このトンネルを抜けたら地球だ」と。で、トンネルを抜けたら、素晴らしいお花畑が広がっていたと。「ここが地球か」と。「やっとたどり着いた」と。これ、間違ってますか? 正しいですか?――正しいんです。だって地球だから(笑)。でももともと地球じゃんって話なんだね(笑)。もともと地球なんだけど、この人は、そう言っても気付けなかった。よってこの人に、もともとここが地球なんだよっていうことを知らせるためには、その人がここを地球だと思えないいろんなものをその旅の途中に削ぎ取ってやんなきゃいけなかった。で、最終的にいろんなこと、いろんな旅によって――まあ、修行の場合は師匠がつくわけだけど、師匠がついて、いろんな旅をさせながら――だから全部方便なんです。
 例えばね、「さあおまえ、この山を乗り越えたら地球に一歩近づくよ」と。でもその旅の途中で師匠は弟子に、いろんな試練を与えることでエゴを削ぎ落としてるわけだね。つまり、ここを地球だと見れない原因を、スパッといろいろ削ぎ落としてる。でも弟子にはそれが分からない。分からないんだけどとにかくこの山を越えればいいんだと思ってる。修行も同じなんです。修行の一つ一つには、実は皆さんが考えてるのとはちょっと違う意味があるのかもしれない。例えば、Mさん、じゃあ今日、ムドラー一時間やってくださいと。「え、一時間嫌だな」と(笑)。で、三十分ぐらいやって、「先生、多分わたしの気が上がってないと思ったから一時間って言ったんだろうけど、三十分やってだいぶ気が上がったからもういいだろう」と、やめてしまうと。でも、実はそうじゃなかったかもしれない。一時間やらせる意味は別にあったのかもしれない。しかしそこでMさんが三十分でやめたことによって、その意味は全く意味をなさなくなるかもしれない。修行ってそういうところがあるんだね。本人は分からないかもしれないが、実は別のことをやってるんです。で、一応本人は修行というかたちを持ってね、イメージを持って、「おれはこういうかたちで進んでるな」っていう思いを持つ。
 だから特に密教とかでは師と弟子の関係って大事なんです。師への完全な帰依が要求されるんです。その方が師は楽なんです。どういうことかっていうと、師匠っていうのは――ちょっと話が広がってるけど――弟子をいろんなことでだまくらかさなきゃいけないんだね。だまくらかしてゴールに連れていくんです。なんでかっていうと、ゴールは弟子にとっては理解できないところだから。だからほんとは違うことやってるんだけど、「ほらほら、進んでるでしょ、進んでるでしょ」って言って(笑)、ちょっとだまくらかすんだね。で、弟子は、「あれ? ちょっとこれ違うんじゃないですか?」っていう気がするんだけど、師がうまいこと言って、「あ、なるほど、そうか」と。「分かりました」ってこう弟子はついていくんだね。でも本当は違うことやっています。
 でも、弟子がほんとに信が強ければ、だまくらかす必要ないでしょ。信が強ければっていうのはつまり、観念を超えて師匠に帰依してれば、だまくらかす必要がなくなる。つまり弟子を納得させる必要がなくなるから。つまり最短距離のことをやればいい。弟子は師がやってることは全くわけが分かんないんだけど、信じてついていく。これが一番早いね。
 もちろんこれは、師じゃなくて神を相手にしたバクティヨーガも同じです。これもここでも何回か言ってるけど、われわれの身の回りに起きることっていうのは、だいたいすべてつじつま合わせです。特に修行者にとっては、修行者と神や仏陀との完全なる絆が強まってくると、われわれの修行を進めるために、あるいは救済のために、いろんなことがつじつま合わせとして起こってきます。で、つじつま合わせとしていろんなことがうまくいって、あるいはいろんなわれわれを浄化するようなことが起きて、すべてはうまく進んでいく。しかしわれわれがほんとにこの宇宙を包含してる完全なる存在への信仰、帰依――つまりもうこれは一つの象徴的な言葉で言うと、「すべてはただあなたがお与えになり、すべてはただあなたがお奪いになるのです」と。ね。「喜びも悲しみも、ただあなたです」と。「あなたの愛にほかなりません」と。これを完全に受け入れられたとき、もしくは完全までいかなくても、かなり受け入れられたとき、神は、「お! こいつはもう表面的なだまくらかしやつじつま合わせをする必要がないな」って思いだします。そこでわれわれの周りには、わけ分かんないことが起きだします(笑)。つじつまが合わなくなって、でも修行は進んでいく(笑)。「あれ? なんでここにこれあるの?」みたいなところが――「なんかこの世のつじつま合わなくなってない? ここでいきなりこれが出てくるのはおかしいんじゃない?」みたいな感じになってくる。これはいい傾向だね。だからわれわれの修行生活の中で、なんかつじつま合ってないんだけど、修行が進む方向に進んでいくと。あるいは救済が進むような方向に進んでいくと。これは神と自分の信頼関係が強くなってきた証拠です。
 話がだいぶ広がったけども、だからもう一回言うけども、すべてはもともとここにある。しかし、ここにあるっていうことに気付かなきゃいけない。そのためにはいろんなことをやらなきゃいけない。それは、何回も言うけども、積み重ねるというよりは剥ぎ取る作業なんだね。だから皆さん、これはまずは知識として頭に入れといてください。剥ぎ取られるんです。だから剥ぎ取られることを恐れちゃいけない。で、その剥ぎ取られ方っていうのは、皆さんが今イメージしてることとは違うことかもしれない。それから、剥ぎ取られるっていうことは、つまり皆さんのエゴが一番嫌がるっていうことです。だから皆さんの修行が進んでくると、皆さんのエゴが嫌がることが起きます。それを、神の愛だとか、自分の修行の進化だって思えるかどうかだね。だって嫌じゃないことだったら剥ぎ取られるっていわないじゃん。それはもともと自分と関係ないわけだから。だから剥ぎ取られるっていうのはつまり、エゴはすごい苦痛を味わう。そのときっていうのはね。だからそういう認識が最初からあると、まあ、あまり失敗はしない。
 その人が心が弱かろうがなんであろうが、認識が大事です。だから認識がないと、いろいろエゴが理由付けて、逆にグッと剥ぎ取られないようにしてしまう。もしくはもっと着ちゃうから(笑)。逆にね。そういうパターンってあるんだよ。つまり、例えば十枚着てて、神や師匠が「よし、十枚から九枚にいこうか」って剥ぎ取ろうとしたら、「ああー!」って抵抗して、抵抗どころかもっと着てしまう。「あれ? こいつ信があると思って剥ぎ取ろうと思ったら、九枚にしてあげようと思ったら十三枚になっちゃった」と(笑)。「駄目だこりゃ」と。そういう場合ももちろんあるんだね。だから修行っていうのは、自分の錯覚、エゴ、煩悩、こういったものを、いろんな場面によって剥ぎ取られるんだと。これは当たり前のことなんだっていう認識がなきゃいけない。



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