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解説「実写版ラーマヤナ 第二十話」

20111023 解説「実写版ラーマヤナ 第二十話」

◎とてつもない真理へのサイン

 今日は「菩薩の生き方」の続きですが、その前にまた、今観た『ラーマーヤナ』のちょっとだけ話をすると、この場面はしばらく続く場面ですが、簡単に言うと、カイケーイーというバラタという人のお母さんの策略によって、ラーマが国を追放され、そして王位を奪われたと。それは息子バラタのためにカイケーイーがやったわけだけど、バラタはお母さんの意に反して――もちろんラーマのことが非常に大好きっていうかな、ラーマを非常に愛していたし、しかも正しくダルマに則って生きるっていう強い誠実さを持っていたから、母の煩悩によって愛する兄ラーマが追放され、自分がその代わりに王位に就くなんてことは耐えられなかったわけですね。そこで自分はそれを放棄すると宣言して、ラーマを捜しに行くわけだね。
 で、ラーマと出会って、で、ラーマに自分の想いを伝えるわけだけども、しかしラーマはそれを拒否するわけですね。つまり、自分はダルマに則って生きると。つまりこの背景には、父親であるダシャラタ王のカイケーイーとの約束があり、それを守ったっていう一つのダルマを貫いたっていう背景があったので、自分はそれをしっかりとね、父の意志を受け継ぐんだと。それから外れることはできないんだと、断固として言い張るわけだね。
 しかしバラタは――バラタは今日観ても分かったように、途中からはもう理屈がない。つまり、「あなたこそ真の継承者です」っていうのは理屈なわけだけども、途中からは理屈もなくなって、もうとにかくあなたがいないとわたしは生きていけないと。ね。わたしはあなたに対する愛でいっぱいなんだと。だから戻ってきてほしいと。あなたが追放されて、わたしがのうのうと贅沢な王様の暮らしをするなんて、絶対にできないんだと。そのような理屈を超えた愛によって訴えるわけだね。
 それに、今日観ても面白かったと思うけど、グル・ヴァシシュタっていう――このグル・ヴァシシュタっていうのは、日本ではあまり知られてないんですが、ヒンドゥー教とかヨーガの世界で非常に重要視される、ヨーガ・スートラとかと並んでね、重要視される「ヨーガヴァシシュタ」っていう経典があるんですが、この著者でもあるんだね。だから大聖者として知られる方なんですけども。この大聖者ヴァシシュタさえも、バラタの愛にちょっと頭がおかしくなってきちゃって(笑)、バラタの愛に智慧が吹っ飛んじゃって、もうどうしたらいいか分かんないってなってしまうぐらい、強烈な愛だったわけだね。
 で、ラーマの方は逆にいわゆるダルマ。ね。つまり何があってもダルマを守り通すと。これで一貫して譲らないと。この二人の――つまりラーマは、ダルマを守り通すから城へは帰らないと。バラタは、強烈な愛によってラーマを連れ戻したいと。どっちも素晴らしいあらわれであって、素晴らしい心のあらわれであって、誰にもどちらが正しいかを判別することはできないという場面だったわけですね。
 で、この後、この決着が次の話でつくわけですけども、それはまた非常に感動的な話なので楽しみにしておいてください。T君がこの編集とかしてて、わたしにスカイプで「先生! これは最高に感動です!」と(笑)。「今までで一番感動です!」っていうお知らせが来て(笑)、実際感動だったわけですけども(笑)。まあそれは楽しみにしておいてください。
 もう少し解説をすると、ここでラーマが貫こうとしていたダルマっていうのは、もちろん非常に大事なことなんですね。ダルマを貫くっていうのは。ただちょっと勘違いしちゃいけないのは、「ダルマ」っていった場合、よく普通に教えのことをダルマっていいますよね。例えば仏教の教え、ヒンドゥー教の教え、全部ダルマっていいます。
 ダルマってね、本当はすごく幅広い言葉なんだね。例えばね、われわれが持ってる観念のことも、よくダルマっていうんですね。だから善いも悪いもダルマってなっちゃうんだけど、ここでいうダルマは、もちろんもっと深い意味でのダルマです。で、このダルマを守る、ダルマ通り生きるっていうのは、何をいってるのかっていうと、例えば今日もこれから学ぶ『入菩提行論』に書かれてる素晴らしい教えっていうのは、もちろんすべてダルマなわけですけども、ただ、この言葉がダルマなんじゃないんだね。何を言いたいかっていうと、ダルマっていうのは、本当に宇宙を貫く、あるいはわれわれの生命を貫く絶対なる指針みたいなのがあって。で、これはね、言ってみれば本当は言葉ではなかなか表わせない。逆に言うと、言葉なんかいらないんです。言葉なんかいらない、われわれが本当に心を純粋化して、そこに焦点を合わせれば分かる。つまり「これしかないじゃないか」って分かる世界なんだね。それがダルマなんです。
 だからこれは不変なんです。だからこれをヨーガでは「サナートダルマ」――つまり永遠のダルマっていうんだね。
 表面的な教えっていうのは、時代や国で変わる。例えばお釈迦様は、その当時の人に合わせてこういう教えを説きました。しかし時代が下がってくるとそれが合わなくなってきたから、仏教は大乗仏教を説きましたとか。あるいはヨーガでも時代に応じて、カルマヨーガ、バクティヨーガ、いろんなのが登場しますと。でもそれは表面的なテクニックであって、じゃなくて、言葉を超えた「これしかない」っていう道筋があるんだね。それがダルマなんです。
 で、経典の言葉っていうのは逆にいうと、ストレートではないんだが、いろんな角度からなんとかあらわせるものを少しずつあらわして、それによってその中心にあるダルマっていうのを浮き彫りにしようとしてるんですね。
 ただもちろん、われわれは最初は無智なので、もちろん最初は馬鹿みたいに経典通りに従ってればいい。でもそれをやってるうちに、だんだんだんだん心の中で智慧が高まってきて、その経典がいろんな言葉やいろんな戒律とかいろんな教えで浮き彫りにしようとしてる真のダルマっていうのがだんだん見えてくる。そしたらそっちに心を合わせればいい。
 ちょっと極端なことを言うと、そっちに心が合えば、今度は表面的なことは結構どうでもよくなります。どうでもよくなるっていうのは、例えばちょっと極端に言うとね、悪いことをするのがダルマの人もいるんです。変な話ね。みんなに悪いことしろっていう意味じゃないよ。一般的に悪とされてることをするのが、今のわたしのダルマであるっていう場合もあるんですね。これは説明は非常に難しいわけだけども。
 さっきもラーマが、「ダルマとは個人的なものである」って言ってたけども、表面的な観念的なものじゃないんだね。例えば文字であらわされた何かがあって、全員にとってこれをやることがダルマっていうのはあり得ない。
 だからね、これはよく問題視されることではあるわけだけど、ヒンドゥー教には伝統的にカースト制度っていうのがある。このカースト制度っていうのは、もともとはダルマに則ったものだったんです。つまりそれぞれがそれぞれのダルマを持っていて、で、それを純粋に遂行するための制度と言ったらおかしいんだけども、カルマの受け皿としてそのカーストっていうのがあったんだね。わたしはその意味でのカースト制度っていうのは素晴らしいと思う。でも現代のカースト制度は、もちろんわたしは否定します。なぜ否定するかっていうと、現代のインド人達がもうエゴに染まっちゃってるから。
 この『マハーバーラタ』とか『ラーマーヤナ』をみると、やっぱり素晴らしいと思うね。素晴らしいと思うっていうのは、例えばまさに『ラーマーヤナ』とかそうなんだけど、登場人物が、特に中心的な登場人物たちね――例えばラーマももちろんそうだし、シーター、あと敵役である魔王ラーヴァナ――この辺がみんな分かってるんですね。この物語の全体像を。ラーヴァナも分かってるって面白いよね。自分が悪役だって分かってるんです。で、ラーマが偉大なる至高者だって分かってるんです。分かっていながら、自分の使命としてシーターをさらい、悪役を演じるわけですね。
 あるいは、『ラーマーヤナ』のより深い部分を説いた『アディヤートマ・ラーマーヤナ』っていうのがあるわけですけども、あれとかを見ると、この聖仙ヴァシシュタが、結構みんなにバラすんですね。例えば今の愛ですごく悩んでるバラタとか、あるいは自分の犯した罪で悩んでるカイケーイーとかに対して、「いや、実はラーマって至高者なんだよ」と、ね(笑)。「このすべての物語は、この地球の重くなったカルマを解消するために、神によって仕組まれたものなんだ」と。例えばカイケーイーは自分がね、ラーマ追放っていう大変な悪を犯してしまったって後悔をしていたわけだけども、「いや、そんな後悔する必要ない」と。「お前は使命を果たしただけだ」ということを言うわけですね。
 で、面白いのは、ヴァシシュタもラーマに教えを説きに来るんだけど、ラーマに教えを説きに来てラーマの前に来たら、いきなりちょっとパッとムードが変わって、「ラーマ様!」と――ヴァシシュタってラーマのグルなんです。ラーマの今生における師匠なわけだけど――最初は偉そうにしてるんだけど、いきなりへりくだって、「ラーマ様」と。「実はわたしは過去世において――神だったわけだけど――ラーマが地上にみんなを救いに降りるのを知って、ラーマにお近づきになりたいがために、あなたのグルとしての役割を受け入れました」と。「だからこうして来たんです」と。で、「わたしはこうして近くでこのリーラーに加担できることは大変幸せです」って言って礼拝をして、「そろそろじゃあ、またリーラーに戻りましょう」って言って、パッとまた偉そうになって「ラーマよ」とか言ってるんだね(笑)。
 こういう非常にスケールが大きいっていうか、人生全体がまさにリーラーであって、その中で自分のダルマ、自分のなすべき使命っていうかな、あるいは、使命とかダルマとかいう言葉に収まりきれない、われわれが本当に心を純粋化させたときに分かる、なすべき道っていうものを、いかにつかんで、いかに純粋にその道を歩くかっていうのが、このヒンドゥー教あるいはインド宗教の根底に流れてるんだね。
 これは素晴らしい人類の宝物であってね、こういう部分を見逃して、現代の多くの人がやってるように、表面的なインド哲学とか仏教哲学とかああだこうだやってもしょうがないんだね。この本当に人間という限定的な存在がね、非常に真理に近づき得た表現として、こういった物語が実はあるんですね。
 わたしも昔は、昔この『ラーマーヤナ』っていうのをあまり知らなかったとき、さらっと表面だけ読んで、ただの戦争の物語だなって思ってたわけだけど。日本の『桃太郎』もこの『ラーマーヤナ』からきてるっていわれてるんですが。『桃太郎』ってそうでしょ? 少年が猿を連れて島に鬼退治に行く(笑)。まさに『ラーマーヤナ』なんだね。でも日本の『桃太郎』には、使命とかそういう話は出てこない。あれは何が教訓なのかよく分からないけど、鬼を倒して終わるわけだけど。じゃなくて、このヒンドゥー教の例えば普通の物語――『ラーマーヤナ』にしろ『マハーバーラタ』にしろ、この大叙事詩は、世界のさまざまな物語に影響を与えたといわれています。極端に言えば、世界のあらゆる物語のひな形になってるともいわれてる。それだけいろんなストーリーが織り込まれてるんですね。でもそれは形だけ世界に伝わって、いろんな面白い物語のひな形になってるわけだけども。もう一回言うと、このラーマヤナとか『マハーバーラタ』が内蔵している、とてつもない真理っていうか、とてつもないわれわれの人智を超えた真理――人智を超えた真理に近づくためのさまざまなサインみたいなものっていうか、ヒントみたいなものっていうか――それがすごく多くちりばめられているんですね。

◎真のダルマ、真の愛とは

 はい、ちょっと話を戻しますが、そのダルマっていうものをラーマは貫こうとしてると。ここでラーマが貫こうとしたダルマは、もう一回言いますけども、表面的なものじゃないんです。単純に父が約束したからとかでもないんだね。この辺が難しいところで。例えばそれを皆さんが真似してね、皆さんのお父さんがなんか約束したら、「じゃあラーマも約束したから、おれはお父さんの約束を守る!」っていうのではちょっと違ってくるんだね。実はそういう表面的なものじゃない。少なくともここにおけるラーマのやるべきことはそれだったと。
 で、ラーマも言ってたように、ダルマには取引はないと。ダルマは取引ではないと。これはバラタが主張した愛も同じです。愛というのも、取引はそこには存在しないと。どちらもギブアンドテイクでもなければ、あるいは変な意味、合理的なものでもないんだね。合理でもなければギブアンドテイクでもなければ、言ってみれば論理的なものでもない。ダルマはダルマなんです。それしかないっていうのがダルマなんだね。 で、愛もまた愛なんです。ね。愛もなんの論理もないんだね。ただ純粋な心から湧き起こる――この愛の本質については、また次の回でより掘り下げられるわけですけども――純粋な、ただ相手に捧げたいと。あるいは相手の幸福を願う純粋なエネルギーであってね、この愛の本質っていうのはね。で、どちらも論理とか合理とか取引とかは全く関係ない世界なんだね。
 ここの話の話の難しいところは、ラーマもバラタも、ある意味その究極に達していたわけですね。何の論理もない、何の取引もない、純粋なダルマを貫こうとするラーマと、それから同じように何の取引もなく、エゴもなく、純粋な愛を貫こうとするバラタとのぶつかり合いだったわけですね。で、どっちが正しいんだと。ヴァシシュタさえ分からないっていうのが今日の話だったんですけど、その解決が次回お楽しみっていう感じなんですが、ちょっとだけネタバレをすると(笑)、この究極に思えた――もちろんラーマは完璧なわけだけど、究極に思えたバラタの愛にも、実はちょっとだけ曇りがあった。まあ曇りと言ったらおかしいわけだけども、ちょっとだけ穴があった。バラタの愛にね。それが次回明かされるっていうかな、次回それにバラタも気づいて、で、その結論に持ってかれるわけですけども。でもそれもわれわれから見たら全く桁違いっていうかな、桁違いの純粋で強烈な愛なんだけどね。
 バラタが示してる愛っていうのは、もちろんこれはわれわれの世界でいうと、バクティヨーガの世界です。バクティヨーガ。ちょっとこれネタバレになっちゃうんだけど、次回もちょっと出てきますが、次回シーターのお父さんであるジャナカ王っていうのが出てきて、ジャナカ王が最後裁くんですけどね。ジャナカ王っていうのは偉大な王ではあるんだけど、偉大な王であると同時に大聖者でもあってね、そのときもシヴァ神の恩寵を受けて裁きを下すわけですけども。
 そうだな、細かいことは次回にお楽しみってことにしておきますが、ある部分をバラタがね、このジャナカによって指摘されて、バラタがそれでハッとするんですね。つまり、バラタは自分で、本当に何の私心もないと。何のエゴもなく、ただラーマへの強烈な愛によってやって来て、強烈な愛によってラーマを連れ戻そうとしてると。ね。これが何の嘘偽りのないわたしの愛だって思ってたんだけども、シヴァ神の恩寵を受けたジャナカ王の言葉によってハッと目覚めるわけだね。その誰がみても純粋過ぎるほど純粋だと思っていたバラタの愛にも、実はまだ足りないものがあったと。そこでバラタはハッとして、「わたしは目覚めました」と。「わたしは間違っておりました」と。ね。「これに気づかせてくださってありがとうございます」と。そしてより完成された愛の形をとるわけですけども。
 そのときにこの前の段階で、このジャナカ王が言った言葉が――ダルマというのは、つまり宇宙を流れるこの絶対なるサナートダルマっていうのは、決して誰にも壊せないと。ね。つまりそれは絶対なる法則だから。誰かが何か考えたり言ったりして変わるもんではない。絶対に変わらない永遠のダルマていうのがあると。しかしですよ――しかし、唯一それを超えるものがあると。それが純粋なる、私心なき愛であると。で、これが例えば信仰という形をとり――つまりバクティという形をとって、帰依者が神に向かって、至高者に向かって、強烈な純粋なる至高なる私心なき愛を強烈に向けたとき――本当はそのダルマというのは神がお作りになり、神はダルマに則ったことしかやらないんだけども、その帰依者の愛が強烈であり完璧であったときのみ、至高者は自分で作ったそのダルマを、自分で曲げてしまうと。それを放棄して、信者の前に現われると。ね。これがバクティヨーガなんです。
 つまりバクティヨーガっていうのは、何度も言うけども、純粋なる私心なき愛を磨きに磨いて、それを邪魔するエゴというものを放棄しきって、その強烈な愛によって――まあ変な言い方をすれば、ダルマさえもぶち壊して(笑)、ね。今日もバラタが言ってましたけども、わたしにとっては善悪なんてどうでもいいと。ね。善悪さえもどうでもいい。正しい間違ってるなんてどうでもいい。ただあなたへの愛でわたしはいっぱいなんですと。この強烈な力によって、あらゆる法則性さえも打ち破って神が来てくださると。これがバクティヨーガなんだね。
 ダルマっていうのはすべてに浸透する、ベーシックにわれわれが守らなければいけないことなんで、当然われわれはダルマっていうものを常につかみ続けなきゃいけない。同時にバクティの道を歩む者は、今言ったそのダルマさえもぶち壊すぐらいの、強烈な愛の心――これを神に対して向けなきゃいけないんだね。
 ちょっとラーマクリシュナが面白いたとえ話を言っててね、面白いたとえ話っていうのは、お金持ちがいたとして、で、そのお金持ちの人にいろんな人が、いろいろ下心を持って近づいてくると。例えばある人はその人にお金を借りたいからうまいこと言って近づいてくると。何回か言った『杜子春』の話とかもそんな感じの話ですけどね。いろんな利権に下心をもって近づいてくる人たちがいると。でもここにそうではない、そのお金とか全く興味がなく、あるいは権力とか、あるいはさまざまな利得になんの興味もない状態で、ただそのお金持ちのその人が大好きな人がいたとするよ。で、その人に対して、その人が大好きだからある人が近づいて来て、その愛の表現とかをしたとしますよ。そうするとそのお金持ちの人は、当然その人にいろんなものを授けたいと思うんだね。あるいはその人の前に現われる。まあ変な言い方すれば、もうお金なんかどうでもいい状態で、その人を自分のそばに招き入れるかもしれない。
 これはラーマクリシュナが言ってるたとえだけどね。われわれの中にほんの小さなギブアンドテイク、あるいはほんの小さな、自分でも気づかないかもしれない合理主義、あるいはエゴ、私心みたいのがあると、やっぱりこの扉は開かれないんだね。だから全くそんなの全然関係ありませんと。ただわたしは神への愛でいっぱいなんですと。あるいはあなたに奉仕する人生を歩きたいんです、というのを至高者に向けるのが、バクティのポイントなんだね。だからラーマがあらわした真のダルマに自分を捧げる生き方、そしてバラタがあらわした真の愛に捧げる生き方、これはどちらも必要なんだね。特に皆さんみたいなバクティヨーガとか、あるいは菩薩道を歩きたいっていう人は、これはどちらも必要です。ですから表面的なことだけじゃなくて、ダルマとは何かというエッセンス、それから真の愛というのは何かというエッセンスをつかんでほしいっていうか、日々の修行でどんどん浮き彫りにさせていって、それを念正智によって忘れないようにしてほしいね。

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