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「菩薩の渇望」

【本文】

 しかし、慈悲には多くの苦しみが伴う以上、なぜ努めてそれを起こさせるのかといわば--世の苦しみに思いをはせれば、どうしてこの慈悲の苦しみが大きいといえよう。

 もし一人の苦しみによって多数(の人)の苦しみが消え去るならば、自他を哀れんで、その(自分ひとりの)苦しみは生ぜしめらるべきである。

 そこで、スプシュパチャンドラは、王の加害を予想しながらも、自己の苦しみを避けて、多くの人々を破滅させようとはしなかった。

 かように、相続を正観し、自己が幸せでも、他者が苦しんでいれば自分も等しく苦しいと考える人々は、あたかも白鳥が蓮華の池に潜るように、無間地獄に沈む。

【解説】

 この辺はとても感動的ですね。

 慈悲行には確かに苦しみも伴いますが、それとは比べ物にならないほどの大きな苦しみで、世の衆生は苦しんでいるのです。
 しかも、何度もでてきたように、彼ら欲望に憑かれた衆生の苦しみは、苦しんだからといって成長や進歩や浄化があるわけでもない、意味のない苦しみです。しかし菩薩行の苦しみは、自分にも他者にも多くの恩恵を与える苦しみなのです。よって喜んでそこに飛び込んでいくのです。

 スプシュパチャンドラというのは、仏典にでてくる聖者です。昔、スプシュパチャンドラという聖者は、法に反対する王に迫害されることが予想できる状況でありながら、恐れずに国民に法を説きに行き、王に虐殺されたそうです。
 彼が虐殺されるときの苦しみは、国民が煩悩に覆われ、真理の法を知らずに生きていく事による苦しみに比べたら、全く小さなものだと、スプシュパチャンドラは考えたのでしょう。そしてそれをできるのは、自分しかいないのだと。
 そういう意味では、周りの者よりも早く、法にめぐり合った人というのは、そのような責任があるといえます。つまり前にあげたたとえの中では、その人は、体中を苦しみから守る「手」なのです。彼がやらなければ、誰も救えない人がいるのです。
 菩薩はそのような自覚、覚悟をもたなければならないのです。

【本文】

 衆生が解脱したときに、歓喜の海にあふれる彼ら(菩薩)は、それをもって満足すべきではないか。味気ない(個人の)解脱に、何の用があるか。

 かようなわけで、他人の利益をなしても、おごるべきでなく、また、誇るべきでもない。果報を期待すべきでもない。ひたむきに他人の利益を渇望してなすべきである。

【解説】

 「味気ない個人の解脱に、何の用があるか」と、スパッと言ってもらうと、気持ちいいですね(笑)。
 誰かが修行を進めること、そしてもちろん解脱することは、菩薩にとっては大変な歓喜なのです。それは偽善ではなく、本当に歓喜なのです。
 菩薩行そのもの、そして他者が修行を進め、苦しみから真に解放されることが菩薩にとっては喜びであり、その喜びのために菩薩は行動しているのですから、他者に利益を与えても、おごったり、慢心に陥ったりするべきではないということですね。

 そしてひたむきに他人の利益を渇望しろと!--ここは重要なところです。なぜなら、ここで渇望と訳されている言葉は、トリシュナー、タンハーといい、12縁起の法の一つでもありますが、普通はそれが「苦しみの因」だとされているからです。お釈迦様も、「四つの真理」の教えの中で、この渇望・渇愛(タンハー)こそが苦しみの生じる原因であるとはっきりと定義しています。
 しかしそれがここでは、肯定されているのです。それは賢明な方ならお分かりでしょうが、渇望の因と果が違うのです。苦しみの因となる12縁起の渇望の因は、もとをたどれば「無明」です。無明から、誤った輪廻の経験の残存印象がよみがえり、誤ったものの見方が根付き、苦しみの自我(五蘊)が形成され、自と他の区別がはっきりとし、そこで生じる苦楽の錯覚に対して、強烈に「渇望」するのです。それが強い執着となり、輪廻の苦しみが生じるわけです。
 しかし菩薩の渇望の因は、無明ではありません。逆に明であり、智慧であり、慈悲であり、あるいは偉大な仏陀や菩薩との縁であり、あるいは過去・過去世の偉大なる発願です。
 それらを因として、菩薩としての見解が生じ、菩薩としての自覚が生じ、そして「他者に利益を与えたい!」という渇望が生じるのです。それは「全ての衆生を一人残らず救いたい!」という強烈な執着となり、実際に菩薩行を行ない、そして衆生が救われるのを見て、菩薩は歓喜に震えるのです!
 無明から生じる渇望は衆生を輪廻に縛り付けますが、菩薩の渇望も、菩薩を輪廻に縛り付けます。彼は最後の衆生が輪廻を出るまで、自分もこの輪廻から去るつもりはないでしょう。

 入菩提行論は全体的にすばらしい論書ですが、特に今回の部分の本文と解説を書いていて、私はえもいわれぬ強烈な歓喜に包まれっぱなしです(笑)。
 それどころか、この第八章は、この後もさらにすばらしい教えが展開されていきますので、お楽しみに(笑)。

【本文】

 そこで、あたかも誹謗にいたるまで(全ての危害に対して)、私が自我を守ると同様に、私はまた他人に対しても、保護の心、慈悲の心を起こす。

 己に関係のない赤白二滴に関して、なんら実体がないのに、反復修習によって、「私」という知が生ずる。

 そもそもこの身体という「自分ではないもの」を自己と認識しているのに、他人の身はなぜ自己として認識されないか。

 自己を欠点ある者、他を徳の海と認識し、我性の捨離と、他人の受容とを観ずべきである。

 身体の部分として手などを慈しむように、なぜ衆生を、世界の部分として慈しまないか。

 この自我でない自己の身に、反復修習によって我意識が生ずるように、他人に対しても、反復修習によってそれを自我と見ることが、なぜ生じないか。

 かようにして、他人の利益をなしても、おごりも誇りも現われない。まして、報酬の期待は生じない。自分自身を楽しませているに過ぎないから。

 そこで、苦しみや憂い等から、己を守ろうと汝が願うように、そのように、保護心と慈悲心とを、世界に向けて反復修習すべきである。

 困難のために事を中止してはならない。なぜなら最初それを聞いただけでおそれを感じた事柄さえも、反復修習の力によって、それがなければ全く喜びを感じないほどになるから。

【解説】

 「私」は、「私」が被害にあうことを極度に嫌い、それは肉体的にも、精神的にも、たとえば悪口を受けることからも、自分を守ろうとしますね。
 それと同様の思いで、何とか他の衆生に対しても、心から、苦しみから守ろうという気持ちを起こすべきだということですね。その理由は、これまでに述べてきたとおりです。

 「己に関係のない赤白二滴」というのは、父母の精子と卵子のことです。
 つまり、そもそも自分とは関係のない、ある男性の精子と、ある女性の卵子が受精し、新しい肉体という物質が生じました。それは、今までさまざまな角度から繰り返し説いてきたように、なんら実体がないものです。しかし私達はその実体がない肉体という物質に対して、「私」という思い、自我意識を、繰り返し繰り返し、生まれたときから反復修習してきたので、もう確固たる「私」という思い込みの自我意識は強固に根付いてしまっているのです。
 しかしそれは逆に言えば、単に反復修習によってそうなったに過ぎないのですから、同様に、他者に対しても、「私である」という反復修習をひたすらするならば、自分と同等に他者のことを観ることも、当然可能である、ということですね。

 そのようにして、全宇宙の衆生に対して、自分が自分に向けるのと同等の保護心・慈悲心を向けるよう、ひたすら反復修習しなければなりません。
 
 それはとても大変なことに見えるかもしれませんが、どんなことでも、反復修習の力によって成し遂げられないものはないのです。よって勇気と確信を持って、これらを反復修習し続けましょう。

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