解説「ナーローの生涯」第8回(7)
◎ラーマクリシュナとMの例
今言った話とかもそうなんだね。つまりもう一回復習すると、「あの王と王女を打ちのめしてこい」って命令があって、で、その命令通りに弟子のナーローはトコトコと行って喧嘩を挑むと。しかし返り討ちに遭い、半殺しに遭うと。これがイニシエーションなんだね。そこでティローは――そういう言葉では言わないけども、もし言葉で言うとするならば――「やっとお前は、次のこの転移の教えを学べる段階にきたね」と。「はい、じゃあ教えるよ」と――こういう感じなんだね(笑)。うん。これがイニシエーション。
これは前に別の話でさ、ラーマクリシュナのときにもその話をしたと思う。ラーマクリシュナのときには、あのMね、ラーマクリシュナの福音の著者のMが、最初にラーマクリシュナのもとに行ったときの話があってね、そこで何気ない二人の会話があるわけだけど、そこでことごとくMは、いろんな角度からエゴを打ち壊されるんだね、ラーマクリシュナにね。これも非常にうまいわけだけど、ラーマクリシュナが。
まあ一つだけ代表的なのを挙げると、「お前の奥さんはヴィディヤー――つまり智慧の性質のある女性か? それともアヴィディヤー(無智)の女性か?」って聞いてくるんですね。もうこれはだから二択だから、どっちか答えるしかないわけですよね。二択だから。で、Mは謙遜の気持ちもあったんだと思うんだけど、「いや、うちの奥さんはまあ申し分ありません。しかし無智です」って答えたんだね。そうしたらラーマクリシュナが怒りだして、「お前の奥さんは無智で、お前は智慧があるっていうんだな!」って怒鳴るんだね。ここでMの中の何かがガラガラッと崩壊するんです。
つまり自分は今まで智慧とか無智とかいうことを誤解していたと。――これは実はこの会話だけじゃないんだけど、他の会話も総合してね――自分は、その当時のMっていうのは、ラーマクリシュナに出会う前は非常にインテリでね、非常に多くの教養、特にイギリス的な西洋風の教養を身に付けていて、自分は一般インド人の中では知性に恵まれたインテリであると思っていた。そういう自負があったわけだけど、智慧というのはそういうことではないっていうことを、このラーマクリシュナとの少しの会話によってエゴが打ち壊され、で、それに気づかされるんだね。
で、もちろん縁があったんでしょう。縁があったし、Mの中にも真理を求めたいっていう気持ちがあっただろうから、そのラーマクリシュナとの少しの会話によって、Mが持っていた間違ったプライドやエゴがことごとく打ち壊され、で、ここで素晴らしい言葉が書いてあるんだね。その会話の終わりにMが、「これがわたしと師との最初の、そして幸いにも最後の議論だった」って書いてあるんだね。つまりまさに完全にMにとってはこれがイニシエーションだったんです。その少しの会話を通して、やっとラーマクリシュナの弟子として、ラーマクリシュナの言葉を素直に受け取れる器がそこで出来上がったと。つまりその器作りがイニシエーションといってもいいと。だから水かけてもしょうがない。あるいはなんかチリンチリンってやってもしょうがない。
まあもちろん何度も言うけど、そういう儀式は否定はしないよ。一つの厳かな伝統としてあるのは、それはそれで素晴らしいと思うけど、その真の意味はそこにはないんだっていうことですね。
だからナーローの場合も、イニシエーションとしてとらえると、まあ細かい意味は分からないけど、全体像はなんとなく分かってくる。つまり一つの重要な教えを教えようとするたびに、その前段階で非常に強力な方法でぶっ壊すんだね。