yoga school kailas

解説「ナーローの生涯」第8回(6)

◎イニシエーション

 はい。今言った話っていうのは全体的な話なわけだけど、ちょっと個別な話に入りますが、大王の一行ね。で、ちょっとこの間の勉強会出た人は分かると思うけど、この辺のナーローの試練っていうのは、例えばチャクラとも関係があって、あるいは五大元素ね――地・水・火・風・空といった元素と関係があるとかいろんな説があると。で、その順番でいくと、前回までがヴィシュッダだったので、今度はアージュニャーの段階に入るんだね。前回のヴィシュッダの段階においては、ちょっと似てる話ではあるんだけども、前回は国の大臣なんだね。つまり軍隊を連れた国の大臣がやってきて、それを打ちのめせって言われて、打ちのめそうとしてボロボロにやられると。ね。で、これは大臣イコール権力の象徴であると。つまりヴィシュッダを乗り越える一つの修行であるという話をしましたが、今度は王女や従者を連れた大王であると。これはその次アージュニャー、眉間のね、アージュニャー・チャクラの象徴という考え方があります。つまりこのアージュニャーっていうのは、王のチャクラなんだね。王様のチャクラ。
 よく英語で頭頂のチャクラをクラウンチャクラとかいったりするけど、あれは間違いっていうか、別に頭頂のチャクラは王冠みたいだからクラウンっていってるのかもしれないけど、実際には王のチャクラはこの眉間なんです。王様のチャクラね。なぜこれが王のチャクラかっていうと、ここを完全に開発した者は、世界の王になるからです。で、この道がいい方向に使われた場合は、転輪王になるんだね。転輪王。転輪王っていうのは理想的な世界を真理の教えによって支配する王ですね。この転輪王になる一つの道が、このアージュニャー・チャクラの完全なる開発ですね。これが魔的な悪い方向に使われた場合は、その人は世界を支配する大魔王になります。ね(笑)。世界を牛耳る悪の帝王みたいになる。あるいはマーラ、つまり魔王、天の魔王になります。
 これは非常に数字的にいうとおもしろいんだけど、これは下から六番目のチャクラなわけだけど、魔王つまりマーラの象徴っていうのは六なんだね。なぜ六かっていうと、まず六道輪廻の下から六番目の世界。これは天界だね。天界のさらに下から六番目の世界がマーラの世界なんだね。つまりこの世っていうのは六っていうものを一つの素数として、その六番目――七番目までいくと解脱になっちゃうので、この輪廻レベルの世界の最高の位置にいる六っていうのは、よく転がればその世界を支配する聖なる王となるわけだけど、悪い方に転がれば世界を支配する魔王となるわけだね。六ね。まあ聖書では666の獣とかあるけども(笑)、それと関係あるかどうか分かんないけども、まあつまり魔か聖かは別にして、王のチャクラがこの世界なんですね。
 でもこれは一つの象徴です。実際にはもっとわれわれには計り知れない深い意味がもちろんここにはあったと思う。王様と王女様を打ちのめそうとして逆に打ちのめされるっていう一つの試練はね。これははっきり言うと、ここに出てくるティローとナーローにしか分かりません。で、ここで打ちのめされた――これは一つのパターンなわけですけども――打ちのめされたナーローに対して、ティローがその傷を神秘的な力で癒し、で、転移のヨーガを教えると。このパターンが続くわけですが、これがね、一つのというか、本当の意味でのイニシエーションなんです。イニシエーションね。
 イニシエーションっていう言葉は――イニシエーションって英語ですけど、もともとはインドの言葉ではアビシェーカっていいます。アビシェーカっていうのは潅頂というわけですけども、昔ね、インドの王子様が、新しく王様として即位するときに、頭に水を注ぐ儀式があったんだね。それをもともとアビシェーカっていって、それが仏教とかヨーガに取り入れられて、師匠が弟子を高度な教えとかに導くときの儀式として頭に水を注いだりとか、いろんな儀式を行なうことをアビシェーカっていうんだね。チベットではワンとか言いますけども。で、それが英語に訳されるときにイニシエーションとか、あるいはエンパワーメントとかも訳したりする。でもこれは言葉はどうでもよくて。
 あの、ちょっとここで一つ言っておきたいのは、カイラスでは、まあ皆さんがそれを分かってる人も分かってない人もいるだろうけど、結構高度な内容の修行を教えています。結構高度なっていうのは、ものによってはですよ、ものによっては、皆さんがヒマラヤを十年ぐらい旅して、会えるかどうか分からないようなババジとかに――ババジって「あるヨギの自叙伝」のババジじゃなくてね、ヒマラヤにいる聖者のグルのことを大体ババジっていうんだけど――その会えるかどうか分からない偉大なあるババジに出会って、やっと教えてもらえるような修行だったり、あるいは皆さんが正式にチベット仏教とかに入門して、まあ十年二十年と基礎的な修行を重ねてやっと教えてもらえるような修行だったり、っていうものを一部ここで教えたりしてる。あるいは人によっては――人によってはっていうか、いろんな段階を超えた人に対しては、もっと先のことも教えたりしてる。あるいは一般に普通にクラスでやってるような内容の中にも、普通でいったらかなり高度なものを教えたりしてる。
 で、もし皆さんがいろいろ修行進めたり、あるいはいろんな知識をもし皆さんが持っていたら、こういうふうに思うかもしれない。「あれ? このカイラスではかなり高度なこと教えてるな」と。「しかしカイラスではあまり、というかほとんど儀式的なこと行なわないな」と。ね。まあそれは、わたしがあんまりそういう形式的なのが好きじゃないってのもあるんだけども、あまり「何とかに参入するための儀式」とか、「何とかの授拝の儀式」とか、なんかそういう仰々しいことやらないなと。せいぜい誕生祭とかで、お楽しみ会みたいな花が飾られたり(笑)、

(一同笑)

 みんなで楽しく歌歌うぐらいで(笑)、ね。あんまり儀式的なことやらないなと。で、例えば皆さんがいろんな本とか読むと、例えば本来ここで教えているような、例えばヴァジュラサットヴァ一つとってもそうだけど、ああいうのを教えるときっていうのは、イニシエーションを受けなきゃいけないと。例えば形式的ないろんな儀式的なものを受けなきゃそれは無効であるとか、受けないとそれは駄目なんだっていろんなところに書いてあったりする。それはインド的なヒンドゥー教的な教えでもね、あるいはチベット的な教えでもね。で、それは本当にそうなんだろうかと。
 もちろん例えば皆さんがそういった世界に入ったならば――例えば、昔ここに来てた人でもチベットに出家した人がいるけども、そういう感じで正式にチベット仏教に出家しましたとか、あるいは正式にヒンドゥー教のスワミになりましたとか、その場合はもちろんその団体っていうか、その流派の流れに従えばいいと思うんだね。でもそういうのがもしない場合は、イニシエーションとか、あるいはアビシェーカといわれるものの本当の意味を考えなきゃいけない。
 つまりそれは、別に水ふりかければいいってもんじゃないよね。そうじゃなくて、まさに「参入」なんです。参入。つまりその世界に入るための――よく通過儀礼とか入門の許可とかいうわけだけども、それは別に言葉で許可するわけじゃなくて、その世界、その修行の世界に入れるための準備作りを行なうんですね。
 これはさっき言ったぶっ壊すっていう話とも関係があるけども、その人がそれがあるがゆえにそこに入れないものをぶっ壊して、で、その準備を整えると。これが本当の意味でのイニシエーション、アビシェーカの意味でもある。
 だからそういう意味で言うと、このナーローの物語、特にこの後半の物語っていうのは、そのイニシエーションの連続といってもいいんですね。

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