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バクティの精髄(17)

◎アルチャナ

 アルチャナとは、至高者への礼拝である。

「この世界でヴィシュヌを礼拝する者たちは、不死を得、モークシャという至福の境地に至る。」

 このように、ヴィシュヌ・ラハシャには説かれている。
 至高者への礼拝は、絵や心のイメージでもなされることができるが、そのイメージは礼拝者の心に訴えかけるものでなければならない。
 礼拝は、外的なアイテムを使ってもいいし、また単に心の強烈な思いやムード(バーヴァ)だけでおこなうこともできる。しかし心のバーヴァだけでおこなう礼拝は、浄化された智性を持つ高度な段階の者だけがおこなうことのできる礼拝のかたちである。
 また、基本的には、聖典に説かれているような様々な条件に沿ったかたちで礼拝はおこなわれなければならない。しかし高度な段階の献身者の場合は、彼らが好むどのような方法で礼拝をおこなってもかまわない。
 礼拝の目的は、至高者を喜ばせることである。そのために、エゴの降伏と神への愛によって心を浄化するのである。

 また、貧しい人々に奉仕したり、聖者を礼拝することは、ヴィラート・スワルーパ(至高者の宇宙体)への礼拝となる。
 至高者は、あらゆる姿で現れる。
 彼はすべてなのである。 
 意識を持つ存在および意識を持たない存在のすべてになって現われているのはただ至高者お一人であると、聖典は断言する。
 よって献身者は、すべての存在がヴィシュヌ神またはシヴァ神であるという思いを持たなければならない。
 彼は、イモムシに至るまでのすべての生き物を、ただただ神と見なすべきである。
 これは礼拝の最高のかたちである。

 礼拝は普通、タントリックな手法、あるいはヴァイディカの手法を使っても行なわれる。礼拝は、寺院で、あるいは家で、または野外でも行なうことができる。
 礼拝の目的は、主との合一を得るための、誠実な信仰心、そして真の明け渡しである。

 礼拝をしている間、バクタの心は常に主の御姿に集中されるべきである。心は、主の性質、主の無限なる本性、至福、不死などを思うべきであり、現世的なことは考えてはならない。

 礼拝中に主に捧げられるお供物は、それが誠実な思いで捧げられれば、本当に主はその供物を受け取ってくださる。
 燃えるような愛を持ったバクタが神に供物を捧げると、神は実際に至高なる姿でその前に現われ、その捧げられた供物を召し上がってくださるというのは、事実である。
 それは稀な例ではある。真のバクタがこの世界に現われるのは極めて稀であるということは、知っておかなければならない。

 プリトゥやアムバリシャのようなバクタは、この種のバクティ、つまりアルチャナ(主への礼拝)を実践した。彼らの物語は、シュリーマド・バーガヴァタに説かれている。
 主は、この世界の最初の王であるプリトゥの前に現われ、彼に祝福を与えた。
 主は、アムバリシャを守護し、彼に解脱を与えた。
 彼らは、神への愛に没頭し、神以外何も求めなかった。彼らは、神から現世的なものを求めることなく、ただ神の恩寵だけを求めた。彼らは、神を喜ばせたいと思い、神にお仕えしたいと願った。その他に彼らが求めたものは、何もなかった。
 献身者の信仰は、そのような無私なる動機をもったものであるべきである。

 神への捧げものは、必ずしも高価なものや高級なものである必要はない。
 象の王ガジェーンドラは、一体主に何を捧げたというのだろうか? ため池から取ってきた花だけである。
 ドラウパディーは野菜の葉を捧げ、シャバリは野生のプラムを捧げた。
 しかし、主はそれらに喜ばれた。
 主が考慮されるのは、神への愛の思いなのであり、捧げられるものではない。
 彼は、葉にも喜ばれるし、ただの水にさえも喜ばれるのだ。

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