yoga school kailas

徳と縁


 この世は不公平なものですね、と、ヨーガ教室のある生徒さんが言った。

 そもそも生まれつき、お金持ちに生まれたり、貧乏に生まれたり。優しい両親、残酷な両親。才能があったりなかったり。
 そしてたとえば、あくどい生き方をしているのに幸福になる人がいる。あるいは他人のために尽くし、善に従い生きているのに、ひどい目にあい続ける人がいる。

 しかしここで考えなければいけないのが、仏教・ヨーガの教えの大前提である「カルマの法則」と「輪廻転生」だ。

 チベットの伝統では、本格的な修行に入る前に、カルマの法則の教えと、輪廻転生の教えは徹底的に学ぶことになる。そしてそれは修行が進んでも、忘れてはならない重要なポイントとされている。

 仏教の十の戒律の十番目は「不邪見」というが、これは「邪悪な見解を持ってはならない」ということで、邪悪な見解とは、たとえば、カルマの法則はないとか、輪廻転生はない、とかいうことが代表的な「邪悪な見解」とされている。

 「カルマの法則」と「輪廻転生」の真実は、最終的には悟るしかない。しかし悟る以前には、疑問をはさまずにまず受け入れるのが、仏教徒あるいは修行者としては最も利益のある姿勢ではないかと思います。

 さて、それらを前提に見た場合、この世は公平なのか不公平なのかといった場合、「カルマの法則の下において公平である」ということができるでしょう。

 つまり、Aという行為をなした場合、他にそれに抵触する条件がなければ、A´という結果が起きる。この法則性は、誰にとっても公平に全く同じであるということです。 

 つまり誰にとっても、今の苦しみは過去の悪業の結果であり、今の幸福は過去の善業の結果であるということになります。
 
 では、今幸福な人と、今不幸な人を比べた場合、前者のほうが、過去において善をなした「カルマの良い人」なのかというと、一概にそうとはいえません。なぜなら、相当の聖者、あるいは相当の極悪人でない限り、誰でも、善いカルマと悪いカルマと両方を持っているからです。ですから前者は「現在、善いカルマの果報が現われている人」であり、後者は「現在、悪いカルマの果報が現われている人」ということに過ぎません。

 では、何が重要なのでしょうか?

 先ほど、「あくどい生き方をしているのに幸福になる人がいる」と書きましたが、それは本当でしょうか? あくどい生き方をしているのにお金持ちになるとか、そういうことは確かにあるでしょう。しかしその人は本当に幸福なのでしょうか? 幸福とは、物質的条件ではなく、心の状態によって決まるものです。悪をなした場合、その人の心は暗くなり、苦の要素が増すため、本質的な意味で「悪をなして幸福になる」ということはありえません。
 しかしお金とか地位とか異性とか、その人に客観的に幸福に見える現象は生じることはあるでしょう。しかしそれは過去に積んだ善のストックを使っているに過ぎません。現在、悪を重ね、悪の果報を受けない。そして善をなさず、善のストックを消費する。この果てには、この人の中には善のストックはなく、悪のストックに満ちた状態になるので、今は良くても、悲惨な未来や来世が待っていることでしょう。

 次に、他人のために尽くし、善をなしているのに、不幸になるという人を見てみましょう。
 もし本当にこういう状況があるとしたら、これは考えられうる限りの、最高のシチュエーションです。
 なぜなら、善をなし、善の果報をうけず、悪をなさず、過去の悪の果報を消費しているからです。
 この果てには、この人の中には悪のストックはなく、善のストックに満ちた状態になるので、今は苦しくても、その心を曲げずに「忍辱(クシャーンティ)」の修行を続ければ、幸福な未来や来世が待っていることでしょう。

 しかし問題は、それができるのか、ということです。
 善をなしているのに、不幸な目にあった。
 それでもけなげに耐えて、善をなし続けられればいいのですが、ここで不幸な現象に対して悪しきアクションを起こしてしまう場合があります。
 いや、たいていの場合は、起こしてしまいます。
 なぜならそれがカルマだからです。
 たとえば、善をなしていたら、人から非難された。
 非難されたのは善をなしていたからではなくて、過去に自分が誰かを非難したからです。
 だからそこで耐えればいいのですが、無智な人は、そこでまた自分のストレスを消すために他者を非難してしまいます。
 よって悪業が消えません。
 それだけならいいのですが、この世に不条理を感じ、善をなすのをやめ、どんどん悪の道に入ってしまう人もいます。

 ここで重要なのが、「真理との縁」なのです。
 ヨーガや仏教などの真理の法との縁、あるいは聖者との縁、ブッダとの縁などがあれば、その人は必ず生きているうちにいつかどこかで、それらの教えや、それらを教えてくれる人と巡り合います。 
 そして徐々にそれらの教えを理解し、受け入れ、自分の人生に適用できるようになります。

 こうなったらしめたものです。
 その人は善を行ない、不幸な目に合うこともあるかもしれませんが、教えを信じ理解することによって耐えることができ、次なる悪しきアクションを起こさなくなります。そして後には、不幸な目に合っても精神的には幸福に満ちるようになります。そして最後には悪のストックがなくなり、不幸な目に合わなくなります。

 よってこの世で最も重要なのは、

 功徳(良いカルマ)と、
 縁(真理や聖者との縁)なのです。

 どんなにお金や地位があっても、どんなに異性にもてても、どんなに一時的に人から称賛されても、それらはただの現象であって、本質的にはあまり価値のないことです。

 どんなに貧乏で地位がなくても、世界中から非難され嫌われたとしても、ただただ、功徳と縁を大事にすることです。

 人に必要なのは、功徳と縁なのですから。
 

share

  • Twitterにシェアする
  • Facebookにシェアする
  • Lineにシェアする