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要約・ラーマクリシュナの生涯(28)「ラーマクリシュナがブラーフモー・サマージに与えた影響」②

◎ラーマクリシュナとブラーフモー・サマージの親愛な関係

 ブラーフモー・サマージの指導者たちの神への渇望を喜んだラーマクリシュナは、彼らに神について語り、またともに神の栄光を歌うことを大変喜び、招きがなくとも自らケシャブの家を訪ねることもあるほどだった。こうして次第にラーマクリシュナは、ブラーフモー・サマージの多くの求道者と知り合いになっていった。ケシャブ以外のブラーフモー・サマージの会員の家々を訪ね、そこでおこなわれている祝祭に参加することもあった。
 ラーマクリシュナは、ブラーフモー・サマージの指導者や会員たちを観察して、彼らが純粋な求道心を持っているけれども、西洋式教育の影響を受けすぎていることに気付いた。彼らは伝統的なヒンドゥー教を誤った迷信的な宗教とみなしており、距離を置いていたのだ。また彼らは実際の修行よりも社会改革を信仰実践の目的とする傾向があった。
 そこでラーマクリシュナは、真の修行への情熱を彼らに吹き込み、神を悟ることを人生唯一の目標とするように、彼らに働き掛けた。その結果、ケシャブとその弟子たちは、ラーマクリシュナが示した道に従って、かなりの進歩を遂げた。母なる神への礼拝を取り入れ、またラーマクリシュナの思想が文献や歌などにも取り入れられるようになり、ブラーフモー・サマージは活性化された。

◎ブラーフモー・サマージの変化

 ケシャブがラーマクリシュナに初めて会ったのは1875年7月だった。そしてケシャブがラーマクリシュナの影響を受けるにつれ、ブラーフモー・サマージも新しい形態をとっていくようになり、西洋思想への心酔から解放されていった。
 しかし1878年、あるトラブルが起こった。ケシャブが自分の娘をクチュベハルのマハラジャに嫁がせたのだが、娘の年齢が、ブラーフモー・サマージが定めた結婚の年齢制限よりも若干若かったのだ。もともとインドでは女性が非常に若い少女のうちに結婚するのは一般的だったが、ブラーフモー・サマージはそれを批判し、西洋的価値観にのっとって結婚の年齢制限を設けていたのだ。しかし西洋的価値観から脱却しつつあったケシャブが、自ら協会の決まりを破ったために、組織は大混乱に陥った、ケシャブのやり方を認める者たちと批判する者たちが争い、ついに組織は「インド・ブラーフモー・サマージ」と「シャーダーロン・ブラフモー・サマージ」の二つに分裂した。
 しかしこのようなことがあっても、ラーマクリシュナは変わらずに二つのブラフモー・サマージに分け隔てなく恩寵を与え、それぞれの会員たちも変わらずにラーマクリシュナの霊的援助を求め続けたのだった。

 そして当のケシャブは、この大きなトラブルを経験した後、修行において急速な進歩を遂げた。組織の運営においても、以前は否定していたヒンドゥー教の伝統的な習慣――火の供養、沐浴、剃髪、黄土色の衣を着ること――などを取り入れていった。
 ケシャブのラーマクリシュナに対する信仰と帰依心の深さは、表現しがたいものがあった。あるときからケシャブは、ラーマクリシュナの教えの中心の一つである「信仰の数だけ道がある」という真理を「ナヴァヴィダーン(新摂理)」と名付けて、一般大衆に向けて説き始めた。彼の率いるグループも「ナヴァヴィダーン(新摂理)」と呼ばれるようになった。
 そしてラーマクリシュナのもとを訪ねたときは、ケシャブは、「新摂理に勝利あれ! 新摂理に勝利あれ!」と大声で繰り返しながら、ラーマクリシュナの御足の塵をいただくのだった。

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