至高者の祝福(12)「バクティ・ヨーガ」
第二章 第7話 バクティ・ヨーガ
マイトレーヤは続けて言いました。
『かつて、至高者の化身である主カピラに対して、その母であるデーヴァフーティは、こう言いました。
「ああ、完全なるお方よ。私は、『感覚的喜びへの渇愛』という邪悪な想いに、心から嫌悪感を抱くようになりました。この渇愛を満足させようとして、私は無智の深淵に落ちてしまったのです。
あなたは太初の真我であられ、すべての魂の支配者なのです。そして無智で盲目となった全世界に、まるで太陽のように、その眼として姿をあらわされたのです。
ああ、主よ、大いなる私の妄想を、私はあなたに消していただきたいのです。なぜなら、『私』や『私のもの』という妄想は、あなたによって起こされるからです。
あなたはすべての者に保護を与えてくださる方であり、輪廻という樹を断ち切る斧なのです。私は私と世界の本質を知りたくて、あなたに助けを求めるのです。真のダルマを知られるあなたに、私は心から帰依するでしょう!」
この無垢なる母の願いを聞くと、至高者(カピラ)は優しき笑みで顔を輝かせ、次のように話し始めたのです。
「解脱へいたる唯一の方法とは、現世的な喜怒哀楽を完全に停止させるヨーガの道であり、それは至高の真我を瞑想することなのです。
かつてそれを熱望する聖仙たちに私が説いた、すべてにおいて完全なそのヨーガについて、今からあなたにお話ししましょう!
真実を述べるなら、実は『心』こそが、魂の束縛と解放に関与するのです。感覚の対象に心が執着するとそれは束縛につながり、最高者に心が集中するならそれは魂の解放をもたらすのです。
自分の心から、『自分』とか『自分のもの』という思い、そしてそこから派生する欲望や嫌悪などの不純な要素が取り除かれ、心が純化されるなら、その人はもはや苦楽に無関心となり、平安の境地に至るでしょう。
魂が、真の叡智や離欲、そしてバクティによって自分の心を満たすなら、その人は至高の真我を、それはただ一者であり、分けることができず、自ら輝き、微細で、見ることができず、そしてプラクリティと関係なく独存するものとして認識するでしょう。そしてその境地に至るや、もはやプラクリティが力を失うのを知るでしょう。
ブラフマンを切望する者にとっては、至高の真我である主に向かうバクティは、他のどんな道よりも優れているのです。
執着こそが魂の足かせであると、賢者はそうみなすでしょう。しかしその執着が聖者に向かうなら、それは解放への扉として働いてくれるのです。
聖者はよく自分を制御し、慈悲深く、冷静な心を持っており、すべての衆生に友好的です。そして誰にも敵意を持たず、聖典の指図に従って生きるでしょう。彼らが持つ善良な性質そのものが、彼らの身を飾る装飾品なのです。
彼らは心を集中させて、私へのバクティを実践するでしょう。そして私のためには、彼らは定められた自分の義務までも放棄し、さらに親族をも捨ててしまうのです。
そして彼らは絶えず私に心を向けて、私について人々にも語るでしょう。そのような聖者には、もはやいかなる苦難も訪れないのです。
こうした聖者は、すべての執着から解放されているのです。あなたはそのような聖者にこそ執着すべきなのです。なぜなら彼ら聖者は、執着による邪悪な影響を消してくれるからです。
人は聖者と交際することにより、心と耳にはまことに喜ばしき真理を聞くことができるでしょう。そしれそれを聞くなら、やがて心から無智は消え去り、主への敬意や愛、バクティが、次から次へと生まれてくるのです。
宇宙の創造・維持・破壊という、この私がなす遊戯を瞑想するや、心には自然とバクティが生じて、この世とあの世の感覚的享楽には、距離を置くようになるでしょう。そして聖者との交際を楽しむなら、その人はバクティ・ヨーガによって、熱心に、かつ敬虔に、自分の心を制御しようと努めるでしょう。
感覚の対象への無執着、離欲によって強められた智慧、ヨーガ、私に向けられたバクティ、これらを果たすことで、その人はまさにその生において、すべての者の真我である、この私にいたることができるのです。」
デーヴァフーティは言いました。
「どのようなバクティが、あなたに向けるには最も価値あるもので、速やかにあなたにいたることができるのでしょうか? 解脱を得るには、どのようなバクティが最も適しているのでしょうか?
あなたが言われる、神を知って真理を悟る直接的方法、そのヨーガとは、ああ、至福の体現者よ、それはどのような性質を持ち、どのような補助的方法があるのでしょうか?
どうかその難しき道が、ああ、至高者よ、理解の悪い女である私にもわかるよう、あなたの慈悲によって、親切に説明してほしいのです。」
至高者は答えて言いました。
「私心なき主への信仰とは、あらゆる感覚と行動を止めて、ただただすべての心を主に集中させることです。このようなバクティは、最も優れた解脱へいたり、その者は私の中に溶け込むことでしょう。
しかし、主の信仰者のあるタイプの者たちは、私の足に奉仕することを喜び、私のためだけに活動して、ただ私の栄光だけを歌うでしょう。このような信仰者は、私という存在に吸収されることは望まないでしょう。
このような聖者たちは、まことに神性で魅力的な多くの私の姿を見て、それらと語り合うことでしょう。
彼らの心と感覚器官は、魅力ある私の姿と振る舞い、笑みを浮かべるまなざし、心喜ばしき会話、それらに魅了されていくでしょう。そしてその信仰によって彼らは、彼ら自身は望まなくても、最も精妙な私の世界を得るでしょう。
真理の世界の至福感や、バクティによって備わる神通力なども、彼らは望みません。それでも彼らは、それらを得ることでしょう。
このように私に頼りきった者の真の喜びは、決して壊れることがなく、またカーラ(時)でさえ、彼らを呑み込むことはできないでしょう。
自分に関係する人々、自分の財産、そしてこの世とあの世のすべてを放棄して、あらゆる場所に私の存在を眺め、バクティによって私を礼拝するなら、私はその者を、必ず死の向こう岸へ連れて行くでしょう。
プラクリティと真我の支配者であり、かつ万物に宿る真我であり、そして全能の主であるこの私に庇護を求めぬ限り、輪廻の大恐怖から逃れることはできないのです。
私を恐れて風は吹き、私を恐れて太陽は輝き、私を恐れて神々は雨を降らせるのです。そして私を恐れて火は燃え、死は獲物を求めて行き交うのです。
すべての恐れから自由な私の足には、真理と離欲を伴うバクティによってこそ到達が可能となり、またそれによって永遠の幸福を手にできるのです。
バクティの実践によって私と一つになり、それにより安定した心、この世ではただそれだけが、解脱を得る手段となるのです。」