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勉強会講話より「解説『バクティヨーガ・サーダナー』」第一回(4)

 はい、そして「神の御名を歌う。」これはさっきの二番目はマントラを唱えるでしたけど、そうじゃなくて歌う、いわゆるキールタンっていうやつですね。
 歌の修行っていうのは、一つのバクティの重要な修行の一つになってきます。歌というのは、前も言ったけども、これは馬鹿にできない。わたしは何度も言ってるように、もともとは、バクティヨーガっていうよりはクンダリニーヨーガとか、ラージャヨーガとか、ジュニャーナヨーガとか、そういうのが最初は好きだったわけだけど。だんだんバクティの素晴らしさが分かってきたわけですけども。だから昔そのあまりバクティの素晴らしさが分かってないときっていうのは、例えばこういった神の歌とかね、キールタンとかいうのは、まあそれはそれで好きだったんだけど、なんていうかな――ちょっと前段階っていうか、それは本格的な修行ではなくて、ちょっと気持ちを楽しくするためのもの、ぐらいにしか考えてなかったわけだけど(笑)。でも、どんどんバクティ的なものの真髄が分かってきたら、いや、そうじゃないと。この歌っていわれるものは、馬鹿にできないと。この神への思いや、まああるいは単純に神の御名を繰り返すだけでもいいんですけれども、その歌がもたらす効果っていうのは、計り知れない。
 それは一瞬にしてわれわれの――例えば意識が下がってたとしても、意識やエネルギーをガッて上げてくれるし、われわれを――例えばちょっと極論すれば、ラージャヨーガ――ヨーガスートラのヨーガはラージャヨーガといわれてますが――まあつまり現代ではヨーガスートラっていうのは、すごく神聖視されてとても崇められてるけども、でもあのラージャヨーガ的な、つまりヨーガスートラ的なヨーガで、深い瞑想や、あるいはサマーディに入るのは、いつも言ってるように、かなり大変です。あれはつまり、超精神集中の道だから。超精神集中っていうのは、例えばいつも言ってるように、練習としては例えば画鋲とかでやるわけですね。画鋲。画鋲に一点集中すると。まああるいはロウソクの炎とかに一点集中すると。で、これがここでは――何度も言ってるけど、物理的に例えば対象が拡大していくと。これくらいまで集中を高めなきゃいけないんだね。
 で、普通はその集中ができない。なぜ集中ができないのか。ね。最も根本には、簡単に言ってしまうと、われわれに煩悩があるからです。煩悩がある。つまりわれわれの中に意識的に、あるいは無意識的にさまざまなものに執着してる、あるいはさまざまなものに怒ってる、あるいはさまざまなものが気になってる――これがいっぱいあるんで、われわれの集中の力が分散され過ぎてるんだね。だから最初の段階で、日常生活においてそのような執着を放棄する修行から入って、で、完全にっていうか、かなり意識のベクトルが外側に向かわない、内側に向かう状態を作っておいて、それで物理的に、例えば呼吸法その他でエネルギーの流れをある程度安定させて、そして一点集中すると。これによって得られる道がラージャヨーガだから。ちょっとこれは大変ですね。
 あのー、なんていうかな……、画鋲だよ、例えば(笑)。あるいはつまり、意味のないものに集中できる力がなきゃいけない。でもバクティは違うんだね。分かったと思うけど、バクティはまさに愛の力なんで。「神よ!」と。あるいは、まさに歌とかもそうだけど、歌によってぐーっと感情が高まって、「ああ、クリシュナ!」ってなって、これでバッと入っちゃうんです。この方が簡単だし、あと、楽しいよね。一方は画鋲ですよ(笑)。

(一同笑)

 これは例えばですけど。例えば画鋲にグーッて集中すると。
 わたしね、昔、思い出したけど、ちょっと何度も言ってる話だけど、高校生ぐらいのときに、さっき言ったディヤーナの経験をよくしてたんです。ディヤーナの経験っていうのは、まさに今、ちょっと笑い話みたいに言ったけど、画鋲に集中すると。画鋲に集中すると、画鋲が拡大するんだね。で、そっからサマーディに入るときっていうのは、その拡大しきった――まあ画鋲だったら画鋲なんだけど、画鋲と自分が一体化してしまうっていうか。これがラージャヨーガ的ディヤーナ、そしてサマーディなんですね。
 で、わたしは体験的に――あの、はっきり言うとさ、もう一回言うけど、わたしはこの道をあまり皆さんには勧めません。これはちょっと傲慢に聞こえるかもしれないけど、わたしがこれをできたのは、その素質があったからです、はっきり言うと。普通たぶんできません。で、これであまりやってもしょうがないような気がしてきた、途中から。っていうのは、例えばわたしがそういう経験してたときにね、ヨーガスートラとかそうですけども、いろんな精神集中を利用したやり方が書いてあるんですね。例えばその、まあ究極的にはもちろん、この真我に集中することで真我を悟るっていうことなんだけども。それ以外にいろんなことが書いてある。例えばこのチャクラに集中すると、こういう力を得るとかね。このチャクラに集中すると、こういう経験をするとか。あるいは、北極星に集中すると星の運行を知るとかね。まあいろいろこう書いてあるんですね。で、わたしはそういうのを見て、最初、ちょっとそういうのをやろうかなとしたんですけど、ちょっとやっぱり気が乗らなかった。まあ、あんまりなんか興味がないっていうかね。そういうその、物理的な何かあまり意味のないものに集中して、それで確かになんか、それらの表わす力とか得るのかもしれないけど、なんかちょっと、なんていうかな、素っ気ないっていうかな、無機質的な感じがしたっていうか。でもまあそういう感じなんだね、ラージャヨーガの世界っていうのは。
 じゃなくて、もう一回言うけども、バクティヨーガの世界っていうのは、もちろん同じ――実はシステムは同じなんですよ。システムはこの超集中っていうのは同じなんですけど、超集中を、非常になんというか、無機的な意味のないものへの集中ではなくて、心の強烈な愛。高ぶる、いい意味での感情ね。このグワーッて高ぶった果てに、われわれの意識を超集中状態に持っていってもらうっていうかな、こういう感覚がある。これがバクティですね。
 で、それには、もう一回言うと、歌っていうのはとても使えるんだね。あの……まあ歌ってなんでもそうでしょ? 例えば普通のポップスにしろ、演歌とかにしろ、例えば悲しい曲とか聴くと、涙が出てきたりする。ね。別になんかあるわけじゃないんだけど(笑)。歌の雰囲気とメロディと歌詞とかで、うわーって心がそういう気持ちになる。あるいは楽しい、そういうのを聴くと心がハッピーになったりする。やっぱり歌っていうのは力がある。で、その歌の力を利用して、バクティを進める。これも一つの修行法だっていうことですね。

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