yoga school kailas

聖者の生涯「ナーロー」第二回(2)

◎十二の小さな試練

 はい、そしてちょっと物語の全体像をいうと、この後にナーローの十二の小さな試練、そして十二の大きな試練というのが始まるんだね。で、この十二の小さな試練というのが、今回もやるところなんですが、これはティローパを見つけるまでの試練です。で、そのあとティローパに弟子入りしてから、今度は十二の大きな試練というのが始まる。
 で、この十二の小さな試練っていうのは、この間ちょっと最初のところだけやったんですが、これもね、最初にちょっと全体像を言ってしまうと、ナーローが師匠のティローを探して旅をするわけだけど、その旅の途中で、いろんな出来事が起きるわけですね。で、出来事が起きて、で、ナーローはそこで選択を誤るんですね。選択を誤って、そこで、実はそこに関わっていたのは、その出来事を現わしていたのは師匠・ティローであったということに気づくんだね。気づいたときにはもう遅くて、ナーローは――いつもこれはパターンがあるんですけどね、気絶して倒れてしまう。で、目覚めるともうティローはいないと。で、その度ごとにナーローは、決心するわけです。決心というのは、「ああ、これがグルだとは思わなかった」と。「次からは、どんなことがあっても、それをグルだと見て教えを乞うぞ」と決心するんだね。でもその度ごとに失敗するんです。
 ちょっと今日のこの細かい話に入る前に、この全体像の部分をもう一度説明するとね、ここでナーローがいろんな場面、出来事に遭うわけです。その出来事っていうのは、何重もの意味を含んでいると考えたらいいです。何重もの意味っていうのは、簡単に言うと、一つはナーロー自身の心のけがれの投影です。つまり、まだナーローっていうのは、インド一の学者であったとはいえ、まだけがれが残っていた。そのけがれの投影として、つまり自分の心の現われとして、いろんな現象がわき起こるわけですね。
 で、もう一つの意味は、それと同時にそのいろんな出来事の一つ一つが、グル、ティローね、ナーローの師匠であるティローの起こした幻であったと。で、それが一つ一つの出来事の中で、いろんな意味があるわけだけど。
 で、この部分をわれわれがどう受け止めたらいいのかっていうことを、一つだけちょっと最初に言うとね――ここでまずナーローの気持ちにわれわれがなって考えてみると、すべては――まあグルと言ってもいいし、神といってもいいんだけど――神やグルの現われであった、というのは、われわれにとってもある意味では真実なんだね。
 これはちょっと、何ていうかな、バクティ・ヨーガにも近いし、あるいは仏教的にいうとグルヨーガという世界になるんですが、このグルヨーガやバクティ・ヨーガの一つの考え方っていうのは、いいですか、バクティ・ヨーガの方がみなさん馴染んでるからバクティ・ヨーガでいうならば、「この世界にはわたしと神しかいない」っていう考えなんだね。わたしと神の二人しかいないんだっていう考えになります。
 つまり、わたしが今、外界のものとしてすごく実体視しているこの世界があるわけだけど、あるいはその世界に住んでいるいろんな誰々さん、誰々さんという、その客観視している実体視している存在があるわけだけど、それは全部まやかしであって、この世界にはグルしかいないんだっていう考えなんだね。あるいは神しかないんだっていう考えがある。で、その神やグルといった存在と、わたしとの対話っていうかな、リーラー、まさに遊戯みたいなものが行なわれているんだと。
 で、その神――まあこれはもちろん神でもいい、仏陀でもいい、グルでもいいわけだけど、その自分を導いてくれている聖なる存在は、さまざまな形でこの世界を創り、そして、自分にある意味仕掛けをしてくるわけですね。で、そのすべてというのは――この辺は頭を柔らかくして考えなきゃいけないわけだけど、同時に自分の心のけがれであって、あるいはカルマの投影でもある。つまり、けがれであり、カルマの投影であり、同時に神の祝福なんだね。でもそれを気づかないと、そのけがれのリーラーっていうかな、カルマの激しい流れにただ巻き込まれるだけになる。
 だからそうではなくて、その一つ一つのいろいろな出来事が――みなさんも日々生きていていろんなことがあるだろうけど、その一つ一つに、ああ、すべてはこれは神の祝福であると。もうちょっと分かりやすくいうならば、神が、あるいは自分の師匠が、わたしに何かを経験させようとして、あるいはわたしを成長させるために、こういう場面を現わしてくれているんだと、気づかなきゃいけないんだね。
 たとえるならば――頭を柔軟にして考えてくださいね――自分のけがれであり、かつ神の祝福っていうのはどういうことかっていうと――つまり、神は自分のけがれを分からせるために、例えばだけどね、その現象を起こしているんだって考えなきゃいけない。例えば例を挙げると、プライドが高い人が目の前にやってきたとして、その人が自分をプライドによって苦しめたとするよ。でもそれは、心の投影っていう意味でいうと、そのプライドが高い人が現われるっていうこと自体、あるいはそのプライドが気になるっていうこと自体が、自分のプライドの高さの現われであると気づかなきゃいけない。で、そのような状況を現わしてくれたのは神だって気づかなきゃいけない。というよりも、もっというならば、神がそのプライドが高い人を遣わしたというよりは、そのプライドが高い人が神なんだと考えなきゃいけないんだね(笑)。神がそのプライドの高い人の姿をとって現われ、自分にプライドの苦しみを気づかせようとしてるんだと。例えばだけどね。これは一例ですよ。
 で、ちょっと分かりやすく言うよ。例えばね、じゃあTさんだったらTさんが、ある日そういう気づきがあったとしますよ。気づきがあって、ハッとして、「あっ、これは神が現わしてくれた幻影であった」と。「わたしはプライドが高いから、それに気づかせるためにこういう現象が起きたんだ」と。で、Tさんはそこで一つ悟りを得て、まあ悟りというか大きな気づきを得て、一つ成長すると。あるいは、そこでまだ十分には成長できない場合もある。まあどちらにしろ、決心するわけです。「わたしは一つ分かった」と。「よって、これを応用して、次にいろいろな現象が目の前にやってくるだろうけども、すべてを神の現われ、グルの現われと観て、そこから何を学べるかを考えよう」と。ね、そういうふうに例えばTさんは決心すると。決心するけども、必ず忘れます。ね。そんなこと忘れちゃって、すぐ日常に埋没する。
 例えば分かりやすいんならいいんですよ。分かりやすいならっていうのは、例えば会社の同僚にそういう人がいたとして、同僚のAさんっていう人が自分を苦しめて、そこでハッと気づいて、「あ、Aさんは神の現われであった」と気づきましたと。次にBさんが来て、Bさんが自分を今度は傷つけてきたら、これは分かりやすよね。「あ、今度はBさんできましたか」って感じになるわけです。でも、そんな分かりやすい感じにはならないんだね。じゃなくて例えば、今度は子どもが、その苦しめる役を演じるかもしれない。あるいは全然違う、近所の奥さんが演じるかもしれない。で、それは、全く自分としては不意を突かれるんですね。不意を突かれるから、応用ができなくなるんです。逆にいうと、応用ができるような環境では修行にならないから。
 つまり、神やグルっていうのは、われわれの本当に心の隙を突いて、われわれがそんな簡単に「ああ、すべては神の現われだ」って見れないような、われわれが油断しているような状況で、そういう仕掛けをしてくるんですね。だから逆にいうと、油断しないと、この仕掛けは成功しないっていうかな。そのような形で、さまざまな神からわれわれへのアプローチがこの人生で起こってるんだね。
 そういう目でこのナーローの物語を読むと、これは別に偉大な聖者の特殊な話ではないっていうことになる。つまりこれは、このナーローだけではでなくて、われわれここにいる全員、あるいは修行とかしてない人もそうです。全員にとって、日々起こってることなんです。ただ修行者と修行していない人の差は何かっていうと、修行者の方がそこに気づきやすいっていうかな。というよりも、ちょっとは気づいてる、ということがいえる。まだ修行の道に入れてない人っていうのは、そういう意味では、本当に気づいてない。全く訳が分からない。それが神の祝福であるとか仕掛けであるっていう発想すら全くない状態で、埋没し続けるんだね。でも、それも必要なプロセスなんだけどね。そのプロセスを通り越してから、今度は修行者になって、そのような一つ一つの現象からいろいろなことを学んでいかなきゃいけない段階に入るわけですね。

◎真の師に近づくプロセス

 はい、そしてこのナーローの話に戻りますが、ナーローの場合も――ナーローの場合は、ティロー、師匠と縁ができて、そしていよいよ師匠に導かれる具体的なプロセスに入るので、今言ったような現象がね、非常な強烈な形で分かりやすい形で、次々と訪れるんだね。
 でも、このナーローの場合も、さっき言った例と同じように、ことごとく失敗する。ことごとく、これが自分の心の現われであり、あるいは神の、あるいはグルの現われであるということを気づかないんですね。何で気づかないかっていうと、この物語だけをみると、はい、こういうことがありました、こういうことがありました、ポンポンポンってあるわけだけど、当然その、例えば一つの出来事があって、次の日にその次の出来事があったっていうことじゃないと思うんだね。つまり旅をしていて、いろんなことがあるわけです。関係ないようなこともいろいろあるわけです。表面的にはね。で、油断しているときにパッと次の現象がやってくる。その現象は一見、自分が身構えていたこととはちょっと違うわけですね。身構えてたら大体成功してしまうから。身構えていない、もう一回言うけども、隙を突いて、自分の心のけがれを露わにするような現象がバーってやってくるわけです。だからいつも失敗する。でもこのプロセス自体が、ナーローが真の師匠であるティローに近づいていくプロセスでもあるわけだね。
 この今の前提の解説だけを聞いても、ちょっと難しいかなと思う人がいっぱいいるかもしれませんが、しっかりとね、智性を働かせて聞くようにしてください。
 はい、では今日のところを読んでいきましょう。

share

  • Twitterにシェアする
  • Facebookにシェアする
  • Lineにシェアする