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ラーマクリシュナーナンダ


今日は、ラーマクリシュナの高弟の一人である、スワミ・ラーマクリシュナーナンダのお誕生日です^^

「心とマーヤー」

  スワミ・ラーマクリシュナーナンダ

 心がいくつもの部分に分かれてしまうと、その各々は弱くなってしまいます。しかしもし散乱した心がもとの状態に戻されれば、全体の心は力を取り戻します。
 ある数学の問題を二人の生徒の前に置いた際、心の集中を欠いた方が、その問題を解くのにより時間がかかることをご存知でしょう。心が弱いほど、人はより長く思考しなければなりません。別な言い方をすると、より長く疑い続ければなりません。
 心に疑いがある間は、あなたは思考を続けなければなりません。思考する心というのは、決まって「疑う心」です。
 例えば、ロープを蛇と見間違えたとします。そして、それをよく見たら「それはロープではないか」と思うことでしょう。しかし、風でそれが動くと再度、やはり蛇かもしれないと思ってしまいます。そして、それが本当は何なのかを確かめるまで、あなたは推論し、思考をし続けます。そして疑いが全て晴れることで、ようやく考えることをやめるのです。

 疑いというのは心の病気です。身体が病のもとでは休まらないように、心も疑いのもとでは休まりません。
 この極端に休まらない心というのは、疑いが本来の状態ではないことを示しています。心の本来の状態においては、全ての疑いが解消されており、ひとつの疑いも残っていません。それは主の心と一つなるのです。
 至高者には思考の必要がありません。彼には疑いはなく、全てのことが解決されています。ゆえに、彼の心は「休まらない状態」には決して陥らないのです。
 もし心が休まらないとしたら、それは、不自然な状態にあるからです。休まらないという状態は、決まって、それが異常な状態にあることを示しています。ゆえに、疑いは不自然なものなのです。
 赤ん坊を見失った母親を想像してみてください。彼女は休まるでしょうか?――いいえ、彼女は子供がどこにいるかを知るまで、あちらこちらを走り回り、平静さを保つことはできません。しかし、彼女の腕のなかに赤ん坊が戻され、寝かされたなら、すぐに不安と疑いは去り、彼女は安らかになります。

 あなたの心はどこにあるのでしょう? あなたはその場所を述べることができないでしょう。それは、あまりに散漫になっており、元に戻すことができなくなっているのです。
 母親が迷子になった赤ん坊を家に連れ戻すようにして、もし、心を本来の状態に戻すことができるならば、あなたは安らかになるでしょう。この心の集中、また、失った心をもとの状態に戻すことが、安らぎを見つけるための道なのです。
 どのようにして、心は道に迷ってしまったのでしょうか? それは、マーヤーによって待ち伏せされて、攻撃されたのです。ちょうどある男が砂糖菓子を使って子どもを誘拐するように、あなたはこの悪意のあるマーヤーに誘拐されてしまったのです。マーヤーはあなたを誘い込もうとします。しかし、何のためにでしょうか? マーヤーは、あなたを生贄として欲しがっているのです。
 あなたは人生を望んでいますが、それはあなたの死を握っています。それはあなたに幸福を約束する代わりに、あなたに苦悩という重荷を課します。それはあなたに「この物理的宇宙について学ぶべきです。あなたは、科学について知り、自然の力を征服しなくてはなりません」と言います。
 このようにして、マーヤーというセイレーンは心という小さな赤ん坊を騙すのです。そしてあなたはこう言うでしょう。

「そうです。そうなのです。知識こそが力です。私は、必要なものを得るために、宇宙の力について知らなければなりません。」

 こうして人は、宇宙の全ての知識を得ようと試みます。その結果はどうでしょうか? この宇宙について知ろうというのは、地平線に触れようとするようなものです。地球を巡り続けても、地平線に触れることはできません。この宇宙の全てを知ろうとすることは、それと同じくらい愚かなことなのです。
 この宇宙は有限であり、この有限の小さな宇宙は無限の空間の中にあるという人がいます。しかし、そこでもひとつの問いが生じます。――この無限の空間は何のためにあるのでしょう? どうしてこれほどの空間があるのでしょうか? そこには何か意味があるに違いありません。――このように、有限な人間には決して、この無限の空間の全てを知ることはできないのです。

 セイレーン・マーヤーの影響下では、人は絶えず誤った方向に導かれます。
 人は皆、幸福を望み、全智を望み、永遠の生を望みます。このことから、人間はサチダーナンダであり、永遠に智慧のある幸福な存在であることが証明できます。
 しかし、人はその自分の幸福な本性の全てを失い、それを再び得ようともがきますが、間違った進路を選んでいます。人は、それをこの世界の中で見つけようとするのです。
 このように、マーヤーは、人の心を盗み取り、それを創造の網の中に隠してしまったのです。

 マーヤーは、その本性において不可思議なる存在です。それは悪いものでありますが、あなたに「それは良いものである」と思わせます。それは強大な敵なのですが、あなたに「それは唯一の友である」と思わせます。それは本当に恐ろしいものですが、あなたの前に非常に魅力的な姿で現われます。
 ここで疑問が生じます。どうすれば私たちは、このセイレーンから救われるのでしょうか?
 ここに一つの方法があります――それは識別です。

「この世界は私の家ではない。私は結婚をしていて家庭を持っていると思っているかもしれないが、いつか子どもは死に、それは私に、ここは私のあるべき所ではないということを思い出させるだろう。このようにマーヤーの本性が真実でないことを理解したならば、私は真理を眼前に保たなければならない。私は識別力を高めなければならない。私は目の前にある世界を分析しなければならない。そうすれば、それはどこにも見出せないことがわかるだろう。――天国(スワルガ)と呼ばれる場所へ行っても、そしてこの世界でも、私は幸福を見いだすことはできない。このどちらにおいても、永遠の生は存在せず、そして永遠の生はもちろんのこと、幸福さえも見いだすことができる場所はないのだ。」

 このように熟考して、人は彼の智慧の中に安住するのです。

 彼がこの状態に至ったとき、人は、この世界全体を監獄として見るようになります。ゆえに、この世界は「家」とはならないのです。家とは、永続性、快適さという概念を有しています。家の中ほど快適な場所はありません。家はまた、自由という概念も有しています。家の外では、あなたは自由ではありません。しかし家の中では、奴隷でさえも自由なのです。
 このように、家とは三つの概念を有しています。永続性、快適さ、そして自由――このどれをも見出すことができないがゆえに、この世界は、家にはなりえないのです。
 しかし、この世界の家には僅かの永続性があるように見えるため、あなたはそれに愛着します。あなたは永続性を過度に愛するがゆえに、ほんのわずかな永続性が見い出される場所に、自由と快適さを見い出し、それに愛著を抱くのです。

 この世界が決して、永遠で快適さと自由を提供する家を与えてくれないことに気づくと、人は他を探し始めます。この世界のどの家が、これらを満たしてくれるでしょうか? たとえ理想的な家があったとしても、私たちの渇望を満たしてはくれないでしょう。私たちには、至福、永遠の生、そして自由への、限りなき渇望があります。そしてどんな家も、これらを限られたわずかな量しか与えてくれません。
 それゆえに、世界には決して理想的な、無限の至福、無限の快楽、無限の自由を有する家を見い出すことはできません。王や皇帝のところへ行ってごらんなさい。そして彼らがそれらを持っているかどうか、見てみてごらんなさい。あなたは、誰もが、自分の状態に満足していないことに気がつくでしょう。
 これを悟ると、人は「もしそのような家をここで見つけられないなら、他を探さねばならない」と言って、霊性の生活に対して忠実になるのです。

 これは、心を集中させるためのひとつの方法です。ここの世界や高い世界での喜びが、あなたの熱望を満たすほどではないことを知り、ここの全てが一時的なものであることを知り、そして全てが永遠(ニティヤ)であるところがあると知ったならば、あなたの心はそこへ行こうとするようになるでしょう。
 このように、彼はマーヤーというセイレーンに愛想をつかすようなっていきます。彼は、この宇宙全体をてんびんにかけ、それが無価値であると気づいたからです。しかし、そこから離れようとすると、彼は、それが非常に難しいということに気づきます。

 あるとき、あるアヘン中毒者がカルカッタの医師の所へ行き、こう言いました。

「先生、このアヘンは私の健康を蝕んでいて、死に至らしめるのを知っています。しかし、私はこれを止めようにも、できないのです。」

 するとその医者はこう答えました。

「それを止めようとしてはいけません。同じように摂り続けてください。しかし毎回、チョークで床に印をつけ、それを測りに乗せて、それと同じ量のアヘンを取るのです。」

 その男はそれを行いました。そして6ヶ月後、彼はチョークが元の半分の長さになっているのに気づきました。そしてアヘンの量も半分に減っていました。その年の終わりにチョークは無くなり、そして彼はアヘンを吸う習慣を破壊することができたのでした。

 同様に、この世界を手放すことを望む人は、それを徐々に行なわなければなりません。彼は、薫習された悪習ゆえに、心がひねくれ曲がっていることを見い出し、サーマとダーマ(身体、心、感覚の調御)という助手を使って、少しずつその習性を破壊していかなければならないのです。
 次に、彼は身体を使ってあれこれをしたいと思ったとしても、放縦ゆえにそれが弱ってしまっていることに気づくでしょう。彼はティティクシャ(忍耐)の実践を始めなくてはなりません。
 そして、心を集中させたいと思っても、心は集中することができないでしょう。そのために人は、あらゆる興味や引きつけるものについて無関心になるように励むのです。このようにして彼は、マーヤーというセイレーンを追い払うのです。
 しかし、それらを続けて行くにつれ、人はこう言うようになるでしょう。

「なるほど、私は疑いなく世界に対して無関心となったが、次はどこへ行けば良いのだろう? 誰がその道を私に指し示してくれるのだろうか?」

 人がこの窮地に陥ったとき、グルが現れます。このときに、人はシュラッダー(聖典と師に対する浄信)を持たなくてはなりません。
 次の段階はサーマダーナ(理想への一意専心)で、これがセイレーン・マーヤーへの終局の勝利をもたらします。ここで人は、全ての人のみならず、微生物までもが永遠の自由へ向けてもがいていることを悟ります。
 しかしそのためには、激しく格闘しなければなりません。この世界と私たちを繋いでいる全てのものを手放さなければなりません。しかし私たちは、手放したものに代わるものを得られるときにしか、これを実行することはできません。
 人にそれらを放棄をさせることができる聖典やグルへの信仰を持っている人は、ほとんどいません。なぜならばほとんどの人が、ここが自分の家ではないことを知らないからです。
 全ての人はあたりまえのように、自分の国や家庭を愛しています。人は、妻や子供たち、姉妹や母と一緒にいるとき、彼らと離れたくないと思います。ただ彼らを喜ばすためだけに、一日中、汗水流して働くのです。
 これが、全ての人々の本当の実態なのです。この世界にはほとんど真理の求道者が見いだせないことが理解できるでしょう。

 この「ここは私の家ではない」などの事実を口だけで繰り返すことは、とても簡単なことです。また、このように講義でこの主題を伝えることも、とても簡単です。しかし、「ここは私の家ではない。これは私の母ではない。これは私の父ではない」と言い、実際にそれを信じることは、とても難しいのです。
 誰が心からこの真の家を求めているでしょうか? 一方で、この真の家の中に見い出せるもの――永遠の幸福と自由――を望まない人がいるでしょうか?
 私たちがここにあるこの僅かなものに満足しているのは、ひとえに私たちがこれらのものを得ることができていないからなのです。
 しかし、もしこれらを得ることができるならば、私たちはとても喜んでこれらを受け取るでしょう。もしそのような家があることが事実ならば、私たちはそれを求めなくてはなりません。もし、永遠の父、永遠の母がいらっしゃるなら、私たちは彼らを見つけなければなりません。
 プラフラーダは、自分にはそのような父や母がいるこということを知っていました。それゆえに、彼は彼のこの世の父親からの迫害に耐えることができたのです。

 もし所有物を識別するならば、私たちはこのような結論に達しなければなりません。

「はい、私は本当の家を愛します。私はもちろん、そのような家を愛する者です。しかし、そのような家はここでは見つかりません。もし私が永遠ならば、私は永遠の父と母と共に、永遠の家を持っているに違いありません。」

 しかしこの識別の道には、ほとんどの人は従えないでしょう。おそらく、百万人の中で一人ほどしか、本当の家に行こうと試みようとさえしないでしょう。この理由から、シュリー・クリシュナはこう仰っているのです。

「数千のうちの幾人かが完成を目指して努力し、その中の数千人のうちのわずかが完成に達するのだ。」

 そしてさらに、クリシュナは私たちに、
「君たちの唯一の務めは、私のもとに来ることだ。自力の道はとても危険である」
と仰っています。彼の言わんとしていることは何なのでしょうか?
 識別の道を取ることができる人は、ほんのわずかです。皆にとっての最も実際的な道は何でしょうか? クリシュナはこう仰っています。

「誰もこのマーヤーの魅惑を避けることはできない。それは私自身から出てきているのだ。私の足下に避難しなさい。師のもとへ行き、恭しく忠実に彼に従い、謙虚な心持ちで彼に仕えなさい。私の足下へ避難した人々は、たとえ彼らが生来罪深かったとしても、高潔な魂となり、平安を得るだろう。私に帰依する者は、必ず救われるのだ。」

 ゆえに、親愛なる友よ、もしあなたが完璧な幸福を得たいならば、もしあなたが死を避けたいのならば、まずはこの世界から解放されなければなりません。この世界は恐ろしいセイレーンです。どのようにしたらそれを放棄できるのでしょうか? 神を愛することによってです。あなたたちは何も手放す必要はありません。ただ一心不乱に神を愛しなさい。全てのことを主のために行なってください。人々は皆、何かの行為をしています。誰も何もせずにいることはできません。全ての行為を主のために行なってください。

「食べることも、何かを人に与えることも、苦行を行なうことも、すべて、私のために行いなさい。決して自分自身のために行なってはならない。全てを私のために行いなさい。決して自分のために生きてはならない。私のために生きよ。」

 このようにしてもし神を愛するならば、そしてこの理想を絶えず眼の前から離さなければ、失なわれた糸は見つかるでしょう。そのときに、あなたは本当の家、本当の父、本当の母を見つけるでしょう。そのときに、誰かに「あなたの父は誰か」と聞かれたら、あなたは「私の父は神です」と答えるでしょう。

 あなたが、神をあなたの父として認めることができるほどの高みに至ったとき、全てのカーストの差別と信条はあなたから抜け落ちます。それゆえ、偉大な主、シュリー・クリシュナは、「すべての中に自己を見、卑しい者も、学識あるブラーフマナも、牛も、象も、犬も、チャンダーラも同一であると見なす者は、賢者だと見なされるべきである。なぜならば、神は無限であり、彼の愛は無限で、全てに平等だからである」と語られたのです。

 祝福された者とは、神に信仰を持つ者のことを言います。この二十世紀においては、ほとんどの者が神の存在を信じていません。彼らは、自分自身の存在、妻や子供の存在を信じていますが、ほとんどの者が神の存在を信じていません。祝福を受けた者とは、神を信じ、他の全てが偽りであると信じる者のことです。
 普通の人は、この世界の実在性のみを信じます。しかし真のバクタは、ただ神のみが実在であり、この世界は大いなる蜃気楼であると考えます。

「賢者にとっての昼は、世間の人の夜である。そして、世間の人が目覚めている時は、賢者にとっての夜なのである。」

 世俗的な人の持つ結論は、決して、賢者の結論とはならないのです。

 それゆえに、あなたの義務は、あなたの本当の家と本当の友を決して忘れないことです。本当の友を決して軽んじてはなりません。なぜなら彼は、あなたの唯一の友人なのです。あなたが神を唯一の友、そして本当の家であると見なした日に、あなたは祝福されるでしょう。

 その祝福された日が、あなたたち皆に訪れますように! これが私の心からの祈りです。

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