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第四章 戒律と進化

第四章 戒律と進化

 この幻影の世界における喜びと不幸
 それらはすべて、以前に蓄積されたカルマから来るものであると
 ブッダは宣言しました。

 輪廻が生じる原因は、白と黒の行為です。
 そして健全な白い行為と、不健全な黒い行為には、
 各々10の種類があります。

 輪廻の世界は鏡のようなもので
 それ自体としては特徴がなく、不確定なものです。
 それは、どんな概念的な二分化にも悩まされておらず、平穏です。
 その表面から、透明で、概念的に何の決定もされていないものが、輝いています。
 それは、鏡の明るさに似ています。
 この能力から、色形など、それぞれの対象をとらえる五つの感覚による認識がやってきます。
 それらによって、「自分」という固定的な概念が生じ、主体と客体が分割されました。それは、鏡の中の像に似ています。
 そしてそれは結局、認識者と認識の対象の間のギャップを広げる、利己的な認識となります。
 一連の連続した動きの瞬間瞬間に、憂慮と非憂慮、概念化と非概念化、感情的な認識と単なる認識があります。

 それのみならず、感覚的な欲望の世界(欲界)を求める傾向、愛著によって覆われた概念上の好悪の二分化の固定によって、あらゆる対象に依存するようになります。
 まだあまり明確な観念に分けられない光輝く状態は、色界を生起します。
 それ自体に集中している状態は、どの観念によっても分けることができず、無色界へ向かう傾向となります。
 輪廻転生の性質である、渇愛と無明という二つの障害は、常にわれわれを覆っています。
 
 観念的な固定化がない智慧が消え、心の乱れによってありのままの「今」の真実を受け入れられなくなるとき、あらゆる領域に行きわたる「時間」があらわれます。

 明らかな真実をありのままに「これはそれである」と認識できなくなるとき、光り輝く限定的な「空間」があらわれます。

 渇愛と嫌悪の観念的な思考による主観的客体の構造を通して、認識のプロセスの7つのパターン(目による認識、耳により認識、鼻による認識、舌による認識、身体による認識、意による認識、自我意識)は、客体に関する粗雑な観念を発達させます。

 それらに慣れ親しむことによって、知らぬ間にそれら三つの領域からなる架空の存在へと漂い流されていき、
 そしてそれらの世界で身口意によってなされた行為は、結果として欲求不満や苦悩を生起させるのです。

 もしあなたが「欲界に一晩休みに行こう」と思うならば、粗雑な五感の対象に接触した知覚は徐々に「自我意識による行為」という平原に沈んでいくでしょう。

 色界の領域のレベルでの認識のプロセスは四つのディヤーナがあり、それは微細な感覚の領域内にとどまるものです。

 無色界の領域のレベルでの認識のプロセスは、あらゆるすべての領域に広がっています。
 その四つの無限大の感覚は、心がそれ自体に集中するほどに完全な寂静状態に近づいていき、自我意識は睡眠状態のようになり、心が集中している間は、その寂静の状態から数カルパの間、目覚めることはないでしょう。

 これらの色界のディヤーナの状態、および無色界の心さえ、以前の行為の結果なのです。――そのカルマの力が使い尽くされるとき、それらの状態は終わりをむかえるでしょう。

 輪廻の中で何度も繰り返してわれわれを惑わせるカルマの流れ、それは全く不安定で不確定なものです。よってあなたは、その因果の鎖からの解脱方法を見つけなければなりません。

 カルマの活動のルーツは、純粋な意識の損失です。
 それは、愛著、嫌悪、迷妄から構成されます。
 それらによって発生するものは、架空である存在を生起する悪行(黒い行為)および善行(白い行為)なのです。

 悪業には、10の基本的なパターンがあります。これらの10の悪業は、三つの身体の悪業、四つの言葉の悪業、そして三つの心の悪業に分けられます。

 殺生というのは、他の生き物の生命を奪うことです。
 また、殺さないまでも、暴力を与えることも含まれます。

 偸盗というのは、他者の所有物を盗むことです。
 また、策略によってものを得ることも含まれます。

 邪淫というのは、他者の妻と肉体関係を持つことです。
 また、修行者や、他の交際を禁止されている人々を誘惑することも含まれます。

 妄語というのは、真実ではないことを口にすることです。
 また、ほのめかしによって他者をだますことも含まれます。

 両舌というのは、仲たがいを引き起こすであろう言葉を話すことです。
 また、こちらではこういうふうに話し、あちらではああいうふうに話す、といったことも含まれます。

 綺語というのは、悪い教えや、意味のない冗談を言うことです。
 また、みだらな会話や、つじつまの合わない話も含まれます。

 悪口というのは、残酷な言葉や乱暴な言葉を使うことです。
 また、必要がないのに他者をしかることや、他者に恥をかかせるような友好的でない言葉を使うことも含まれます。

 
 愛著というのは、誰かの持ち物を、あなたのものにしてしまいたいと思う気持ちです。
 また、誰かが称賛されているときにそれを自分が得たいと思うような欲望も含まれます。

 嫌悪というのは、他者に危害や被害を与えたいと思う憎しみの心です。
 また、他者に利益をもたらすことを毛嫌いする怒りも含まれます。

 邪見解というのは、この輪廻の世界のものすべてが無常ではなく永遠に存在するという根拠のない見解、およびカルマの法則を否定する見解です。
 また、心の中での非難や悪口も含まれます。

 十悪にふけることの果報は、それらの実行が意志、内容、実行、結果という四つの要素を、どれだけ満たしているかによって変わってきます。
 それらすべてを含む場合、完璧な悪業になります。

 それらの十の悪業の中身が、比較的軽かったならば、動物界または餓鬼界に落ちるでしょう。
 重かったならば 地獄の苦しみの中に落ちるでしょう。

 また、仮に悪趣を免れて人間界に生まれることができたとしても、あなたが犯した悪業の種類によって、あなたはその果報を受けなければなりません。

 殺生にふけるならば、仮に善趣に生まれたとしても、あなたの寿命は短く、病気もたくさんあります。

 盗みにふけるならば、生活必需品などに満たされない人生となるでしょう。

 邪淫にふけるならば、あなたは醜い配偶者を持ち、またあなたの敵となる人々を多く持ちます。
 
 妄語にふけるならば、多くの悪がはこびり、あなたは他人に騙されるでしょう。
 あなたの召使は反抗的になり、またあなたは悪い召使を持つことになるでしょう。

 綺語にふけるならば、不愉快な言葉を聞かなくてはいけなくなり、そこには口論が生じるでしょう。

 悪口にふけるならば、あなたは他人からいちいち注意されるようになり、また多くの乱暴な言葉を言われるようになるでしょう。

 愛著にふけるならば、あなたの心の欲望は度を越したものになり、それを抑えることができなくなるでしょう。

 嫌悪にふけるならば、自分に利益をもたらすものを探せなくなるでしょう。

 邪見解にふけるならば、あなたは誤った見解を大事にし、偽りに覆われるでしょう。

 
 このように、あなたによって行なわれたどんな悪業も、その積み重ねによって、あなた自身に苦しみをもたらすでしょう。

 要するに、十悪は毒に似ています。
 また、それらは重くとも、中くらいでも、あるいは軽くとも、大きな苦痛を生み出しますので、十悪を今行なっている人は、それらを敵と見て、十悪を回避しなければなりません。

 より高い世界に結びつける十善は、十悪を回避するために意図された善です。――それらは不殺生、不偸盗、不邪淫、不妄語、不両舌、不綺語、不悪口、不愛著、不嫌悪、そして不邪見解です。

 この十善の行為が、規模が少なく、または適度であるならば、あなたは欲界の人間あるいは神になるでしょう。
 この十善が素晴らしく行なわれたならば、あなたは色界や無色界に達します。
 また十善の実践は、今生においても、あなたに高い領域の楽しみを与えてくれます。
 
 十善の実践は、あなたを幸福な生命体に導くでしょう。一方、十悪はあなたを悪しき生命体に導くでしょう。
 カルマの法則を信じ、悪(黒いカルマ)を避け、善(白いカルマ)をなすこと、これは神、または人間の状態へ至る道です。
 これが、お釈迦様がお説きになった真理です。
 したがって、幸運な人々は、十悪の放棄と十善の実践に専念するべきです。

 さらに、輪廻を超え、善悪のカルマも超えた解脱の平和に導く因は、十善、ディヤーナ、無色界の経験、六つの神通力などを含む、五つの道によって要約されます。

 そして、衆生のために、輪廻にもニルヴァーナにもとどまらずに救済活動の中にいる境地に達したならば、あなたはブッダフッドの広大な要塞に到着し、また、純粋な信によって、あなたはすべての世界を超えていくでしょう。

 さらに、功徳の集積と智慧の集積、これらの集積によって二つの障害は取り除かれ、二つの真理の意味が照らしだされるでしょう。

 菩薩が生きる場所は、衆生に対する二つの慈悲です。
 ――そのひとつは、心の透明な輝きのように、あなたの汚れのない実在であり、すべての存在に対するありのままの慈悲なのです。
 ――もうひとつはより表象的な慈悲であり、これは徐々に成長していく慈悲です。

 これらの慈悲が輝いている間は、三毒が存在しないので、まさにそれは善の根なのです。

 あなたがこれらの功徳、智慧、慈悲などを高めていくプロセスに適切に専念し、さまざまなステージをのぼっていくとき、感情は原初の智慧に移り変わり、善業はさらに増加しますし、無明は浄化され、また、すべての世界や存在の中に、錆びることのない究極の意味の真理の太陽を見るでしょう。

 世界において最良のものである十善、および色界のディヤーナのステージ、そして無色界の経験は、真理を照らす光の集積です。
 世界を越える智慧をつかむことは、「絶対的な真実」の原初の智慧の集積です。
 瞑想や日常の中でそれらを実行することによって、素晴らしいことはすべて実現されます。

 積極的な行為はすべて、それらが輪廻に結び付けるか、輪廻から脱却させるかにかかわらず、カルマの行為と呼ばれます。
 そして正しいカルマの行為によって、あなたは幻影の輪廻の世界を超えることもできますし、カルマの束縛から救済されることもできるでしょう。
 その道の基本としての十善の実践は、その程度が弱いか、中くらいか、あるいは大きいかによって、あなたを神や人間へと導き、そして最終的には最も高い果報へと導くでしょう。

 十善の実践は、努力して慣れ親しみ、当たり前のようにそれらの善行に専念することが大事です。自然に、あなたの行動が、十善そのものとなることが理想です。
 そしてそれらの十善に励むことの直接的な果報は、長寿であり、大きな富であり、美しい配偶者であり、敵がいないことです。
 あなたは悪口を聞くこともありませんし、友達は役に立ち、あなたの言葉には注意が払われるでしょうし、また、すべての人々はあなたの言うことを聞きたがるでしょう。あなたはいつも満足していて、親切で、人々はあなたを見たがるでしょう。

 十善の環境的な果報は、楽しく豊かな国々に生まれるということであり、食物や飲み物、また薬草は消化しやすく、滋養になりますし、香りのよい薬草を備えた清潔な場所に生まれます。
 あなたは他者によって欺かれないでしょうし、恐怖なしで生きるでしょう。また、さまざまな害および生活に対する危険はありません。
 人々は友好的であり、あなたは幸福で、知的でしょう。
 季節は楽しく、また作物は豊かに実るでしょう。
 あなたは水の豊かな場所に住み、また、あなたは素晴らしい花や果物を豊富に手にするでしょう。
 葉、果物、薬草は最もすばらしい味および風味を持っていますし、自然資源は良好で、それらの適切な保護者もいるでしょう。

 十善の全体的な効力は、善がさらに増加するということです。また、肯定的な考えはすべて容易に実現されます。

 さらに、布施によって楽しみに到達し、
 そして戒によって幸福、
 忍辱によって美しさ、
 そして精進によって輝き、
 瞑想によって心の平和、
 そして智慧によってあなたは自由をつかみ取るでしょう。

 また、慈愛によって、あなたは愛らしくなるでしょう。
 慈悲によって、他者を手助けすることができるでしょう。
 喜によって、気品に満ちるでしょう。
 そして捨によって平静さが得られるでしょう。

 要するに、功徳および原初の智慧の最高の集積の結果は、より高いステージに順次至り、そして最終的には最高の利益を勝ち取るということなのです。
 これはすぐれた道、マハーヤーナ(大乗)の道であり、あなたに三世のブッダの真理を悟らせます。

 カルマの法則という便宜的・限定的真理と、究極の真理という二つの真理は、相互に依存しあっています。
 したがって、輪廻という架空の存在を構成する「カルマの流れ」は、究極の真理である輝く心の本性に依存しており、真実には行為者も行為も空なのです。

 まさに始まりからカルマは、それ自体は空ですが、そこにそれ自身が現われており、それはすべてを創造する芸術家に似ています。
 それは身体に影がついて来るように、あなたにつきまとい、どこに行こうとも苦と楽がつきまといます。
 それはとても広大なので、空の広がりに似ています。
 それは向きを変えるのが困難なので、滝に似ています。
 行為に基づいた上昇と下降のエネルギー、それはすべての衆生の支配者のようです。

 もしあなたがそれら空なる「カルマの流れ」にとらわれるならば、夢のように、それらが幸福と悲しみの多様性をもたらすでしょう。
 
 われわれはそれについて様々な「解釈」を行ないますが、実際はそれらは何の特質も持っていません。
 因果という絶対確実で深遠で機能的な相互関係の本質は、二元性ではありません。また、それは存在するものでも存在しないものでもないのです。

 行為はそれらに対応する果を熟します。全智者は、それらの因と果の関係を適切に説明しました。

 カルマの因果関係を否定する人は、今在るものが未来においても永遠に在り続けるという見解の信奉者であり、このような人は、悪い方向からますます悪い方向に行くでしょう。それらの悪しき旅に旅立った人々は、その見解を変えない限り、邪悪な状況からの救済を絶対見つけることができないでしょうし、また幸福な存在を遠くへ遠くへと追いやるでしょう。

 また、ブッダフッドは空なのだからといって、カルマの法則や慈悲や功徳の集積などに心を配らない修行者もいますが、それらは虚無主義よりもひどい見解です。彼らは低い場所からより低い場所へと導かれるでしょう。
 この世界が、ただ空について熟考するだけの空間であるならば、あなたにとってこの世界の行動はすべて無意味なものになるでしょう。
 その人がいかに空だ、空だ、といっても、行為をせずに生きることはできず、行為と果報の因果関係は、その人を支配し続けます。
 したがって、正しい行為に気を配らない、そのような悪い見解は破棄してください。

 最も良い方法は、正しい行為の集積と、空の観察の智慧を、相互依存的に深めていくことです。
 それは、観念を超えた空の智慧と、正しい行為の完全な調和です。
 明白だが空であるものとして因と果の間に存在する関係を通して、
 明白だが空であるものとして道を追求することを通じて、
 明白だが空である目的は達成されるでしょう。
 明白だが空である方法で、
 明白なものそれ自身の空、
 それを悟りうるために行なう行為は、
 純粋な行為と智慧の深遠な相互関係です。

 したがって、師から指示された方法によって、スートラとタントラに説かれるさまざまな行為と智慧の二つの修行を積み重ねることは、 
 完全なブッダフッドの悟りへの近道になるでしょう。

 輪廻の存在を生起するすべての悪しきカルマを徹底的に放棄し、
 衆生を救済する器となるための正しいカルマを徹底的に実践するならば、
 あなたは最も高い境地、透明な清澄さ、およびこの上ない智慧を速やかに悟るでしょう。

 このように、真理の教えというさわやかな雨と、至高の至福によって、
 功徳と智慧の二つの集積という華が、 
 衆生の心という土壌の中で成長しますように。

 そして、悪しきカルマの行為や感情であふれたこの輪廻という架空の存在の中で
 疲弊しきった衆生の心が、
 今日こそ、安らぎと幸福を見つけられますように。

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