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第一章 サーンキャ・ヨーガ

『至高者の歌』 序

 インドの聖典『バガヴァッド・ギーター』は、非常にすばらしい経典であると私は思います。
 しかしマハーバーラタの物語を背景にしていてわかりにくいところがあるせいか、いまひとつ、日本では人気が少ないように感じます。

 また、バガヴァッド・ギーターの教えは、いくとおりにも解釈することが可能で、実際、古来から多くの人々が解説を加えてきました。

 私はヨーガと仏教の修行者という立場から、『バガヴァッド・ギーター』をわかりやすくまとめなおしてみたいと考えました。

 ただしここにおいて私は学術的な方法はとらず、少なくとも今回不要と思われる部分はバシバシと削り落とし、また必要であると思われる部分は書き換えたり書き加えたりしたいと思います。

 ですからこのシリーズは『バガヴァッド・ギーター』の翻訳や解説ではなく、あくまでも『バガヴァッド・ギーター』を土台に、私が考えるところのヨーガや仏教の真髄を表現するものであることを、最初にお断りしておきます。

第一章 サーンキャ・ヨーガ

 至高者はこうお説きになった。

『肉体をまとった魂は、幼年から青年、壮年を経て老年に達し、死とともに他の肉体に移る。
 しかし覚者はこうした変化に心を乱されることはない。

 苦しみと喜びは季節がめぐるように去来するが、すべては感覚と心が織り成す一時的な現象に過ぎない。
 それらに惑わされず、じっと見つめるがよい。

 幸福と不幸に心乱されず、常に泰然としている者こそ、
 永遠にして不滅の解脱の境地に安住することができるのだ。

 マーヤーが作り出す現象は一時的なもので持続しないが、真我は永遠である。
 真理を知る人は、この両者の本質をよく識別しなければならない。

 万有にあまねく充満する真我は、決して傷つきもせず、壊されることもない。
 いかなる者といえども、不滅の真我を破壊することはできない。

 いかなる物質もいつかは壊れ去るが、
 すべての本質である真我は無限大で不滅なのだ。
 
 誰かが誰かを殺したり殺されると思う者は、真我の実体を知らないからなのだ。
 真実を知る者は、真我が殺しも殺されもしないことを知っている。

 真我は生まれることも死ぬこともなく、
 かつて現われたこともなく、これから現われることもない。

 人が古くなった衣服を脱ぎ捨て、新しい別の衣服に着替えるように、
 魂も、使い古した肉体を捨て去り、新しい肉体をまとっていくのだ。

 いかなる武器であろうとも、真我を切り刻むことはできない。
 火で焼くことも、水で溶かすことも、風で枯らすこともできない。

 真我は、壊れもせず、焼けもせず、溶けもせず、枯れることもない。
 いつでも、どこにでも偏在し、不変、不動、永遠の実在なのだ。

 それは目で見ることも、通常の意識で認識することもできないが、
 永遠に変化しないものである。
 
 また、自己が誕生と死などの変化を繰り返すものだと、たとえ君がそう考えたとしても、
 悲しむ理由などはどこにもない。

 なぜなら、生まれた者は必ず死に、死んだ者は必ず生まれるからだ。
 これら必然で避けられぬことを、君が嘆く必要はまったくない。

 万物は虚空より創造され、維持され、破壊され、虚空に帰る。
 そのことでいったい何を悲しむ必要があるというのか。

 ある人は真我を驚嘆すべきものとして見、またある人は真我を驚嘆すべきものとして語る。
 しかし他の人々はそれについてまったく理解できないでいる。

 すべての魂の本質である真我は、永遠不滅にして、殺すことなど不可能なのだ。
 ゆえに、すべての生物の死について、君はなんら悲しむことはない。』

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