yoga school kailas

瞑想について、言葉でなかなか表せないこと諸々


 机の引き出しの中がタイムマシンの入り口になっているというのは「ドラえもん」の有名な設定ですが、

 たとえば、漫画ではなく本当に、机を開けて、そこに手を置いたら、わーっと異次元世界に落っこちてしまったらどうしますか?

 どうしますか?って言われても困るかもしれませんが笑。

 もちろんそれは妄想でもなく、精神が病んでいるわけでもなく、
 普通の、通常の意識を持ったまま、です。

 何を言いたいかというと笑、本当に深い瞑想、あるいは広義のサマーディと呼ばれる状態に入るときは、こういう感じなんです。

 「ああ、いい瞑想だなあ・・・」って感じで入るのでもなく、
 また、何となく、違う世界に入っていくという感じでもなく、
 「マジかよ!」って感じです笑

 これは本当に表現しづらいというか、表現できない。
 それは瞑想といって良いのかわからず、
 世界といって良いのかわからず、
 状態といっていいのかもわからない。
 そのような状態、それが本当の瞑想です笑

 単に超越的とか、変容とか、変成意識などという言葉も合わない。
 
 あえて近い言葉を言うなら、
 「マジかよ!」
 「あ、そういうことなの?」

 というのが近いですが笑、これもズバリとはあらわしていません。

 まあ、大いなる、宇宙単位の種明かしをされるような感覚がありますが、まあこの言葉も、そのものズバリではありませんね。

 それはあまりにもハッキリとしているので、「・・・かもしれない」って感じではありません。
 また、言葉で説明できないので、すらすらと説明できるとしたら、それも少し違うかもしれません。

 そしてこれは、入り口です。スタートです。本当の瞑想、サマーディの入り口です。
 今、いろいろな人が瞑想やサマーディについて書いていて、まあそれは言葉の定義の問題なので、いろいろな定義があってもいいとは思うのですが、少なくとも私が経験してきた瞑想やサマーディといったものは、そういうものです。

 この入り口から入り、様々なパターンの瞑想が展開されていきます。

 私がこの種の瞑想に最初に入り始めたのは、高校生の頃です。
 その頃私は、ハタヨーガ・プラディーピカーその他のヨーガ経典をもとに、独学で修行しているマニアックな高校生でした笑。
 アーサナ、プラーナーヤーマ、ムドラー、マントラ、各種の瞑想はもちろん、舌の裏を切って舌を喉の奥に入れたりとか笑、毎日三時間逆さになってたりとか笑、かなりマニアックなこともやりました。
 聖典の記述は曖昧でわかりにくいところもありましたが、過去世の記憶(?)やインスピレーションをもとに自分なりに修行を進めていった結果、様々な神秘的な経験が始まりました。
 その中で特徴的な経験に、いわゆる「ディヤーナ」の経験がありました。
 ディヤーナについてはいろいろな人がいろいろな説明をしていますが、実際、いろいろなタイプのディヤーナがあります。
 この頃私は、ハタヨーガやクンダリニー・ヨーガ的な行法をたくさんしていたせいか、ディヤーナも、非常に物理的というか、リアルでハッキリしたものでした。
 それは、この意識が、実際に、驚くべき実感と共に、無限に拡大するのです。
 それは拡大というより膨張という方があっているかもしれません。
 精神を集中すると、この状態に入るようになりました。
 あるいは精神を集中しなくても、勝手に入ることもよくありました。
 この「無限に広がる」の「無限」という感覚は、何ともいえないものです。本当に「無限」としかいいようがない感じなんです。
 そしてあるときから、この無限に広がった意識が、それを認識している自分を包み込むような感じになりました。
 こうして、上述のような、言葉に表せない状態に入っていきました。
 このときは非常にショッキングな体験でしたが、その後も修行を進めるうちに、これはサマーディに入る祭の一つのパターンであって、また別のパターンもあること、そしてこれは入り口であって、その先にまた、何とも表現しがたいのですが、様々なパターンの奥深い世界が展開されていることを知りました。

 実は私はこういう話は、普段はあまり自分から書いたり、話したりはしません。質問をされて、こういう話が出てくることは多いですが・・・。というのはやはり、ちょっと、正確に言いたいことを理解されないのではないか、という危惧があるからですね。
 でも今回は、最初に書いたドラえもんの話を思いついて、それからここまで書いてしまいました笑。
 意図せずに書いたので、何か意味があったのでしょう。
 これで少しでも、本当の瞑想やヨーガに興味や探求心を持つ人が増えれば幸いです^^

 付け加えると、この深い瞑想やサマーディの入り口に入ったときの実感は、特に「素晴らしい」というものではありません。まあ「素晴らしくない」わけでもありませんが笑。
 圧倒的ではありますね。まさに「井の中の蛙が大海を見た」というたとえの、何百倍も圧倒的です。
 ある朝、いつものように会社に行こうと思ってドアを開けたら、グランドキャニオンの崖の上に出てしまったような感じです。
 いや、それよりも明らかにスケールは大きいのですが、なぜここで「宇宙」とか「異次元」という言葉を使わずに「グランドキャニオン」というたとえを出したかというと、その感覚が非常にリアルだからです。妄想的ではなく、あくまで極度にリアルだからです。
 
 そのような瞑想に入る前の様々な付加的条件と、瞑想後の様々な付加的条件の組み合わせによって、結果的にその瞑想が「素晴らしい」ものとなることはあります。というか一応原則的にはそうなることを目指すのですが、サマーディ自体は、素晴らしくも素晴らしくなくもないのです。そういうものではないのです。

 しかし少なくとも、ヨーガをしている方、瞑想をしている方、各種の修行をしている方は、この「入り口」には立ってみることをお勧めします。人生をかけても、それをする価値はある、と言っておきましょう。そしてその後どうするか、は、各自の判断にお任せします。
 この言葉の意味は、たぶん、そこに立つことができたときにわかるかもしれません。

 ・・・さて、ここまで書いたことは「サイン」です。
 魔の監視をかいくぐり、とらわれの身の仲間に何とか届け、と送ったサインです。
 見つからないように、変装してきましたが、私が誰かわかりますか笑?

 そしてここからは、現実的なアドヴァイスです。

 日々の現実的なアドヴァイスとしては、たとえばヨーガ・スートラや他のヨーガ経典で言うところの禁戒・歓戒、そして仏教の六つのパーラミターや八正道、その他の基礎的な修行、心を浄化する修行や実践、そしてバクティヨーガやカルマヨーガや菩薩道の生き方の探求と実践、これらを徹底的に実践する事をお勧めします。
 そしていつも、神やブッダのことを考えてください。
 いつも同じ事を言ってますが、本当にこれらは重要なことなんです。
 マジで重要です。
 このような実践、そしてサマーディを目指す修行、この両者を全力でなすことをお勧めします。

 そして一番のポイントは、いつも言っていますが、「いかに自分の心を浄化するか」です。 

 素直に、純粋に、心を開き、誠実に、そして全力で生きてください。

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