真理の楔
たとえば悪口を言われたり、嫌味を言われたり、批判されたり、陰口をたたかれたりする。
そしてそのようなことを言う人を観察すると、その人も別の人に同様のことを言われたりしている。
そして--これが一番気づきにくいのだが--自分もまた同じだということに気づかなければいけない。
つまり何かをされるカルマがあるということは、自分にもそれをするカルマがあるのだ。
つまりこの例の場合だと、自分も(気づいているかどうかは別にして)、他の人に悪口や嫌味や批判や陰口を言っている可能性が高い。
これがカルマの輪だ。
カルマの縁が連鎖する、カルマの輪だね。
自分もその中にいるということだ。
カルマというのは自然な流れだ。
だから悪口等を言われた人にとっては、悪口を言い返すこと、あるいは他の人にその矛先をむけること、あるいは、言わないまでもこころに憎しみを持つこと。これらが最も自然で、行ないやすい反応ということになる。
しかしその「自然」にしたがっているがゆえに、カルマの輪から逃れられないのだ。
よって修行者はここで、意志によって、カルマの輪を断ち切らねばならない。
それをできるのは、この輪に参加している人の中で、ただ一人、君しかいないからだ。
そのような考えと出会い、理解し、実践しようとする機根を持つ者しかいないからだ。
憎しみには愛で返せ。
非難には賞賛で返せ。
奪われたら与えろ。
馬鹿にされたら、尊敬しろ。
悪い言葉には良い言葉で返せ。
苦しみを与えられたら、幸福を贈れ。
あだを恩で返せ。
最悪の場合でも、悪しき反応はするな。
これによって、そのカルマの輪に、化学変化が生じる。
それは最終的には、二つのうちどちらかの結果が考えられるだろう。
一つは、自分がその輪から外れてしまうこと。
もう一つは、その悪しき縁の輪が、良い縁の輪に変わってしまうということだ。
後者について具体例をあげると、たとえば憎しみに対して愛を返した場合、それをやられたほうは最初、混乱するかもしれない。しかしその心地よいショックを心地よいとかんじたなら、次は他の人にもそれをやってみるかもしれない。つまり他の人に苦を与えられたときに、慈愛で返してみるかもしれないということだ。
あるいはその人が変わらなくても、それを見ていた他の縁ある者が変わるかもしれない。
このようにして、憎しみの連鎖が、慈愛の連鎖に変わっていくこともあるのだ。
しかしそれを最初にやる人は、大変だ。
つらい。
時には孤独に耐え、時には誰にもわかってもらえない感じがするだろう。
だから修行者はつらいのだ(笑)。
しかしがんばってくれ(笑)。
必ず道は開けるし、必ず見ていてくれるものがいるだろう。
安心して進め。悪しきカルマの輪に、真理の楔を打ち込め。