校長ことマヘンドラナート・グプタの略歴(11)
スワミ・ヴィヴェーカーナンダの弟であるマヘンドラナート・ダッタは、彼の著書「Mの生涯について」の中でこう述べている。
「彼は、グルと神(イシュタ)とは一つであると考えていた。グルはイシュタであり、イシュタはグルであり、両者に違いはない、と。タクルと話をする中で、タクルのことを考え、タクルの言葉を理解するうちに、彼は外見上はマヘンドラナート・グプタであったが、内面的には全くシュリー・ラーマクリシュナそのものであった。
彼は自分の個性や自我を放棄して、ラーマクリシュナの作った鋳型にすべてを溶かし込むように努めた。彼にはその他に何の思想も、個人の独自な考えと呼べるようなものも持たなかった。彼にはタクルの教え以外のものは全くなく、また、独自の主張もなかった。彼の心は、常にラーマクリシュナで満たされていた。あたかも、人生の目標はラーマクリシュナの影となって働くことであるというふうであった。
したがって私は、彼ほど個性や自己主張を捨てて自分の人生を師にささげた人はいない、と断言することができる。タクルの教え、タクルの言葉、タクルに関する会話こそ、神に思いを集中するための、すべてのすべてだった。もちろん彼が世俗の義務を果たすときや、学校で生徒に教えるときなどは個性を表に出すことはあった。このようなことでさえ、ラーマクリシュナによってかたちづくられた心と態度が反映しているのは明らかであった。というわけで、”M”は実は外見はマヘンドラナート・グプタであるが、中身はラーマクリシュナそのものであったといえよう。」
ラーマクリシュナの信者の中で、最初に師の生誕地を訪れたのはマヘンドラナートであった。これは師がまだ存命中のことである。彼にとって、そこは数ある巡礼地の中で最も聖なる場所であった。彼は生誕地のいくつかの場所でひれ伏して礼拝し、記念としてその土地の土を持ち帰った。誰もそのことを師に伝えた者はいなかったが、彼の頭と体を触って祝福してくださり、「聖地の土を持ち帰るのは、深い信仰のあかしだ」とおっしゃっていた。タラケーシュワルのタラクナート寺院やプリーのジャガンナート寺院に詣でたときにも、マヘンドラナートは計り知れない喜びを感じたのであった。そのときも師は彼の頭に触れ、「お前は純粋な人間だ」とおっしゃった。
ベンガル語版「ラーマクリシュナの福音」を書き始めたときから、彼は心身を清め、一日一食で、煮た米とギーを食べて、時を過ごした。その本の印刷、出版が完了するまで、その誓いを守った。そして第五巻の印刷が終わったとき、彼はこの世を去った。
タクルは、「聖典(バーガヴァタ)、信者(バクタ)、神(バガヴァーン)の三つは、実はひとつである」とよく言っていた。もしマヘンドラがこのコタムリトを発表しなかったならば、現在のように大勢のタクルの信者はできなかったであろう。シュリー・ラーマクリシュナの名とともに、聖典「コタムリト」と、そして著者の校長ことマヘンドラナートの名も不滅となったのである。
ベンガル暦二月二十日、西暦1932年6月3日の夜に聖なる福音を書く仕事を終えて、マヘンドラナートの持病の神経痛が悪化した。翌朝の土曜日の6時に、タクル・シュリー・ラーマクリシュナと聖母の御名を唱え、『おお、師よ、母よ、私を抱き取ってください』と、その最後の祈りをタクルにささげて、ヨーギーの78歳の肉体は放棄された。それはあたかも、ヨーギーが自らの望み通りに、その死はヨーガによって眠りに入ったように安らかなものであった。
カーシープルの火葬場で、タクル・シュリー・ラーマクリシュナの身体が五元素に戻ったその南側で、彼の清らかな身体は最後の変化を終えて灰となった。マヘンドラナートは、彼の存命中は常に聖なるタクルの召使いであった。そして死後も、タクルのかたわらにその場所を得たのである。マヘンドラナートに先立って、シュリー・ラーマクリシュナの数多くの内輪の弟子、信者が、すでにこの幻影である世界を放棄していた。しかし、その極めて貴重な場所を、聖なるタクルはあたかもあのお方の愛する召使いである弟子のために、あらかじめとっておかれたかのようであった。