忙しい
「わたしには、わたしを嫌う人々を嫌悪している暇はない。
なぜならわたしは、人々を愛することに忙しいからだ。」
これはヴィヴェーカーナンダの言葉だが、これはこれでとても素晴らしい、美しい言葉であり、多くの人々を啓蒙する言葉だろう。しかしわたしは、実はヴィヴェーカーナンダの真意は、この言葉から受ける印象とは少し違うところにあったのではないかという感じがする。
というのは、「愛することに忙しい」というのは、自分自身の心の状態という感じだからだ。
仏教でいうといわゆるマインド・トレーニング、心の訓練(ロジョン)の段階だ。
ヴィヴェーカーナンダは、人々を愛そう、愛そう、愛しい、愛しい、と頑張っていたのだろうか?
そうではなく、救おう、救おう、と頑張っていたはずだ。
もちろん、まだ心に他者への嫌悪やエゴが強い人は、そのような心の訓練で忙しくするのがまず第一に必要なことである。
しかしヴィヴェーカーナンダは、そんなステージではなかった。
また、実質的にここに心が慈愛に満ちた人が存在するなら、それは周りにも良い影響を与える。その意味で、自己の心を愛で満たすことに努力することは素晴らしい。
しかし単なる感傷主義に浸ることは、ヴィヴェーカーナンダが最も嫌い、他者にも注意したところである。
「私はみんなを愛しています!」と何百回言ったって意味がない。様々な意味で苦しんでいる人を、様々な意味で実際に救わなければならない。そのための思索と実践で忙しかったのではないか。
その境地にある者にとっては、人が自分をどう思っているかなどは全く眼中にない。
いかに現実的に一人でも多くの人を救えるか、だけなのだ。
よって、上記の言葉ももちろん美しく素晴らしいのだが、私が個人的に、ヴィヴェーカーナンダの真意をもっと正確に表わしていると思うかたちで意訳すると、こうなる。
「わたしには、私を嫌う人々を嫌悪している暇はない。
なぜならわたしは、人々を救うことに忙しいからだ。」
さらに、ラーマクリシュナからヴィヴェーカーナンダに受け継がれた、バクティと救済思想を融合した思想で表現するならば、こうなる。
「わたしには、わたしを嫌う人々を嫌悪している暇はない。
なぜなら私は、苦しむ人々の姿としてお現われになった神に奉仕することに忙しいからだ。」
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