心を変革する鋭利な戦輪(終)
私と、私の両親であったすべての魂が、
アカニシタ天で完全なる悟りを得るまで、
たとえ、悪しきカルマのゆえに六道を彷徨っていたとしても、
私たち皆が、常にお互いを一心に支え合うことができますように。
その間、たった一人の衆生を救うためにも、
願わくば、私が、三悪趣に沈みゆきますように。
そして、偉大な菩薩の行為をけがすことなく、
願わくば、私が、悪趣で苦しむ者たちを救済することができますように。
悪趣の衆生が人間界や天界に転生し、菩提心を起こしますように。
そのとき、善趣のすべての衆生も、
私のように、無我を深く瞑想しますように。
そして、輪廻とニルヴァーナを対立させることなく、
彼らが完全なる寂静を瞑想し、自己の本性を完全なる寂静として悟りますように。
かくのごとく為し、私は敵を征服しよう!
かくのごとく為し、私は誤った見解を破壊しよう!
かように、非概念の智慧を瞑想して無我を培った私が、
どうして、ブッダの身体の因と果を得ることができないといえようか?
聞きなさい! すべての現象は、相互に依存して生じているに過ぎない。
相互に依存して生じているがゆえに、自主独立して存在するものは何一つない。
次々に移り変わってゆく事象は、まるで幻影、偽りの現われ。
あたかも、松明を回すと現われる炎の輪のように、すべてはただの幻に過ぎない。
バナナの樹のように、生命には内に本質がない。
泡のように、人生には内に本質がない。
霧のように、人生は、慎重に分析すると、消散する。
蜃気楼のように、人生は、離れて見ると美しく見える。
鏡に映る映像のように、人生は、実体ある真実のもののように見える。
雲のように、人生は、ここに在るかのように現われる。
わが敵・エゴも、まったくこれと同様である。
エゴは、一見存在しているように見えるが、まったく存在していない。
エゴは、一見本当にあるかのように思えるが、真実にはどこにも存在していない。
エゴは、ありありと現われているように見えるが、肯定と否定の範疇を越えている。
かように、どうしてカルマの輪が存在し得るというのか?
カルマは、本質的には存在していないにもかかわらず、
あたかも、水を入れたコップの中に月が映るように、
カルマとその果報は、多種多様の偽りとして現われる。
かように、カルマは単なる現われに過ぎないものであったとしても、私は善に従い、悪を避けよう。
宇宙の終焉の炎が燃え上がっている夢を見れば、
私は、それが実際に起こっているわけではないのに、その熱に焼かれることを恐怖する。
同様に、地獄などの世界が、本質的には存在していないとしても、
溶かされ、焼かれるなどの苦しみを恐怖し、私は悪を放棄する。
熱病で錯乱状態にあるとき、そこはまったく暗くないというのに、
人はまるで、暗く深い穴に落ち、その中に閉じ込められたかのように感じる。
同様に、無明が本質的には存在していないとしても、
私は、三つの智慧(聞くこと・考えること・瞑想することによって生じた智慧)によって、無明を晴らそう。
演奏家が美しいメロディを奏でているとき、
よく検討してみると、音は実際には存在していないことがわかる。
けれども、メロディの調べは、検討されていない事実の集まりによって生じ、
人々の心の苦悩を和らげる。
同様に、カルマとその果報を徹底的に吟味するならば、
それらは本質的にはまったく存在していないというのに、
現象はありありと生じ、そして消滅していくということがわかる。
まるで真実であるかのように、私は諸々の苦楽を経験する。
かように、カルマは単なる現われに過ぎないものであったとしても、私は善に従い、悪を避けよう。
水の滴を垂らして壺を満たす時、
最初の一滴がその壺を満たすのではなく、
最後の一滴が、あるいはそれぞれ一滴一滴の水滴が満たすのでもない。
相互依存の集まりによって、その壺は満たされるのである。
同様に、過去のカルマの果報として苦楽を経験しても、
それは、最初に積んだ因に起因しているのではなく、
最後に積んだ因に起因しているのでもない。
相互依存が集まって一体となったときに、苦楽は経験されるのである。
かように、カルマは単なる現われに過ぎないものであったとしても、私は善に従い、悪を避けよう。
ああ! 私の心を喜ばせ、吟味されていないときには自主独立している(ように見える)この現象には、
まったく、何の本質もない。
しかしそれは、まるで本当に存在しているかのように見える。
この真理はまさに深遠であり、智慧なき者には理解し難い。
今、私はサマーパッティの瞑想に没頭している。
ゆえに、そこに、ただの現象を実体視する何があるというのか?
何が存在し、何が存在しないというのか?
”在る”や”無い”といったことを断言できる何があるというのか?
主体と客体は存在せず、事象には究極の本質はない。
一切の識別と精巧で複雑に作り上げられた概念のない、
無為なる、光り輝く、永遠に存在する内なる本性にありのままにとどまるならば、
私は、偉大なる存在となろう。
かように、相対的菩提心と
絶対的菩提心を修習することで、
私が、障害なく二つの集積を完成させ、
二つの目的を完全に悟り得ますように。