各種のヨーガとサマーディ
だいぶ昔に、ラージャヨーガ、クンダリニーヨーガ、ジュニャーナヨーガ、バクティヨーガなどにおけるサンヤマについて書いた(「松川慧照エッセイ集5『遊戯(リーラー)』」参照)。
https://blog.goo.ne.jp/yoga-kailas/e/deb4eda5ca45ef380641a242c97ad2aa
サマーディに絞って簡潔に書くと、ラージャヨーガは精神集中によって意識が拡大し、二元を超えてサマーディに入る。
クンダリニーヨーガはクンダリニーや甘露のエクスタシーに包まれつつ、聖なるエネルギーの飽和によってエゴの壁が壊れ、至福のサマーディに入る。この道を実際に成就する場合、バクティヨーガが不可欠だ。
ジュニャーナヨーガは思索によって幻影を壊してサマーディに入る。これについて少しだけ書くと、本来、思索というのは自己の観念内のものなので、思索によって観念、幻影を破壊することは普通はできない。しかしやり方によってはできるのである。それはちょうど、夢の中で様々なヒントを見て論理的思索によって、「これは夢だ」と気づくようなものだ。しかしこの道は現実的にはかなり難しい。この道を行く場合、現実的には徹底的な実際の現世放棄が必要になってこよう。
バクティヨーガは神への愛により、エゴが崩壊し、エクスタシーとともにサマーディに入る。ただ、バクティヨーガは完全なおまかせの道であるために、いつ、どのようにサマーディに入るのか、入らないのか――さえも神のご意思へのおまかせとなる。バクティヨーガは他の道と違い、「神への愛」というバクティの修行自体が、サマーディ等に入るための手段ではなく、それ自体が目的なのである。
され、今回はこれにプラスして、他の道によりサマーディに入る方法ももう少しだけ簡潔に書いてみよう。
☆菩薩道
菩薩道は、他者への愛、慈悲を強調し、育てていく。そして自分と他のすべての魂が平等、あるいは自分よりも他者のほうを強く愛するくらいまでもっていくのである。
本来、自分と他者の区別という二元性は存在しない。しかしそのエゴと対象という二元性の幻影に巻き込まれ、苦しんでいるのが我々の状態である。
他者を認める、愛する、受け入れるという方向性によってこれを打ち砕いていくのが菩薩道である。これによってすべての他者を自己と同等に愛することができるようになったとき、つまりすべての衆生の幸福を心から願えるようになったとき、この自と他という二元性の幻は崩壊し、サマーディに至る。
しかしこの道を行く者、すなわち菩薩も、バクティヨーガと同様、サマーディに入ることを目的としてこの道を歩くわけではない。菩薩の願いはあくまでも実際の衆生の救済である。しかしその菩提心や慈悲が真に高められたとき、彼は自然にサマーディに入る要件をそなえたことになる。
☆カルマヨーガ
カルマヨーガも詳細に書くと長くなってしまうので簡潔に要点だけ書くが、いってみれば座ってサマーディに入るのではなく、日常の様々な行為をしながらサマーディに入る道である。
ただ、実際にはカルマヨーガは、前述のラージャヨーガ、クンダリニーヨーガ、ジュニャーナヨーガ、バクティヨーガ、菩薩道などのどれか一つ、または複数、またはすべてが、その根本になければならない。
たとえばラージャヨーガ系の場合、まず瞑想でこの宇宙や自己の本質にアクセスする修習を繰り返したうえで、その感覚を保ったままであらゆる行為を行う。それはパシッとはまった感じであり、エゴがなく宇宙の本質とつながって自然に動いている感じである。
クンダリニーヨーガの場合、実際にクンダリニーヨーガのプロセスが進むと、自然に、普通の行為をしていても、物理的にエクスタシー、心身の軽さ、心身がないようなエネルギーの飽和状態が生じ、そこから超意識状態に入っていく。
ジュニャーナヨーガはこの幻影の世界に巻き込まれないような思索をしつつ、あらゆる行為を行うことで、行為の中にありながら世界が崩壊していく。
バクティヨーガは――このカルマヨーガは普通、バクティヨーガとセットで語られることが多いが――たとえば一切の行為は神への奉仕であり、自分に起きる一切の現象は神の愛であるという認識、あるいは行為者は神おひとりであり自分はただの道具、操り人形に過ぎないという認識等を維持しつつあらゆる行為を行うのである。
そして菩薩道は、まさに他者の救済、あるいはそこまでいかなくても、他者との接触において、他者のために生きる、他者の幸福を第一に考える、他者に奉仕する、等の行為の中でサマーディに近づいていく。しかし実際はこの菩薩道も、バクティヨーガとセットでないと難しい。あくまでも神やブッダの道具として、という感覚でないと、独りよがりになり失敗するだろう。
☆仏教
仏教といってもいろいろあるが、ここでは原始仏教・大乗仏教・密教と大まかに分けよう。
まず大乗仏教には、上述の中でクンダリニーヨーガ以外のすべての要素が含まれている。
密教はそれにクンダリニーヨーガが付加されるとともに、バクティヨーガ(特にグル・バクティヨーガ)、ラージャヨーガなどの要素が非常に強く実践的に強調される。
では原始仏教はどうか。ここでいう原始仏教とは、今少し流行している南方系のテーラワーダ仏教のことではない。お釈迦様が実際に説いた原始仏教である。
もちろんそれは原始仏典を探るしかなく、しかも原始仏典の中にもどれだけ本当のお釈迦様の教えが残されているかはわからない。だからあくまでもここでいう原始仏教とは、原始仏典を読んだうえで、わたしが感じているところの原始仏教のことであると理解してほしい。
原始仏教はラージャヨーガ系やジュニャーナヨーガ系が中心である。しかし仏典を見ると、同時にバクティヨーガやカルマヨーガや菩薩道的な要素も見受けられる。実際は弟子のタイプによって、強調されるポイントが違っていたのだろう。
ところで、クンダリニーヨーガ的な物理的な行法等は、原始仏典には出てこない。しかし、方法論としては出てこないのだが、修行のプロセスとしては、まさにクンダリニーヨーガという感じの記述が出てくる。これは二つの可能性が考えられる。
1.クンダリニーヨーガの方法によらずに、クンダリニーヨーガ的なエネルギー系ヨーガを進める技法があった。
2.実際はクンダリニーヨーガの技法も存在した。
とにかくこうしてみると、お釈迦様の原始仏教は、様々な要素を含んでいたのだろうと思う。そしてその濃密な種子が、様々なタイプの大乗仏教や密教等として進化していったのだろう。
しかし、現代で原始仏教一本で行くのは難しいのではないかと個人的には思う。それは、お釈迦様の教えでおそらく現代に残っていない要素が多々あると思われるからだ。
しかし他の道の補助としては、今残っている原始仏典の中にも使える要素は多くある。
さて、最後の結論としてはいつも同じような感じになるが笑――現代では上述の要素すべてを総合的に行うのがよいと思う。特にその中でもバクティヨーガと菩薩道を中心に据えるのがよいだろう。