勉強会講話より「聖者の生涯 ナーロー」⑧(4)
◎茨の道
もう一回言うけども、これはシヴァーナンダとかも言ってるように、精神世界――つまり本当の意味の精神の進化の道っていうのは、決して生やさしい道ではない。あるいは暖かい花咲き乱れるほんわかした道ではない。そうじゃなくて茨の道であると。これは皆さん心に刻まなきゃいけない。それは何でかっていうと、何度も言うように、エゴをぶっ壊すのが修行だから。そしてエゴっていうのは、今の段階ではわれわれは自分と一体化してるから。つまりエゴイコール自分になっちゃってるから。それをぶっ壊すっていうのは、まるで自分自身が切り刻まれるような感覚を覚えるんですね。でもこのエゴの破壊がないと修行は進まないというよりも、それは修行ですらない。
でも修行者っていうのは、何度も言うけども、すぐにこれを忘れちゃうんだね。忘れちゃうっていうのは、エゴを破壊することが修行だったはずなのに、調子良くなると、逆にエゴを守る側にまわってしまう。調子良くなると、いろんなね、例えば現象的にもいいことが起きたりして、修行も進んでるような感覚があって、それはまあ進んでるのかもしれない。進んでるのかもしれないけど、ジワジワとまたエゴの罠が始まって、いつの間にか「エゴを守りたい、守りたい」っていう気持ちの方が優位になっちゃってね、修行が進まないとか、あるいは逆に後退してしまうような場合がある。
だからこれは皆さん一つのマントラのようにね、詞章のように、自分に常に言い聞かせたらいいと思う。つまり、「わたしは甘えていないかな?」「わたしは勘違いしていないかな?」「エゴを破壊するのが修行である」と。「それを忘れてはいないかな?」と。「わたしはエゴを守ろうとしていないかな?」――この教えというか、感覚を常に忘れないようにしなきゃいけないんだね。それは今道徳的に皆さんに言ってるんじゃなくて、修行のコツを言っています。コツ。
つまり、何度も言うけども、次から次へとエゴはいろんな手を使って騙し、足場をガッチリさせようとしてくるんだね。だからわたしのエゴといわれるものを徹底的にバラバラに壊し続けなければいけない。
もちろんね、もともと本当に求道心の強い人、あるいは師匠とか真理というものに対する帰依とか信の力が、本当に強い人にとっては、このような教えはいらない。なぜかというと、師やあるいは真理に対する信、あるいは教えとか解脱とかに対する求道心、これが本当にマックス状態にある人にとっては、もう自然にエゴが落ちていきます。その人が自分の求める道を歩いてるだけで、自然にエゴは落ちていくんだね。でもやっぱりね、そこまでの強い信や帰依や求道心っていうのは、もちろんそれを持つのは理想だけども、なかなか持てない。それよりも多くのけがれた意識や、堕落した意識に支配されてしまう場合の方が多いと。よって、今言った、常に自分のエゴへの監視っていうかな、それを怠らないようにしなきゃいけない。
で、今皆さんに言ってることは一般的な話なんだけども、このナーローが経験してることっていうのは、エゴの破壊っていう意味では同じ言葉なんだけども、もっとさらに根本的なものだと思ってください。根本的なエゴの破壊の段階に遭遇していると。
ところで、ナーローという方は、勉強会に出たりこの本を読んでる人は分かると思うけども、もともとはインド一の仏教学者っていうか、仏教学者といっても別に学問だけやって修行しないってわけじゃなくて、多くの教えを学んで理解した修行者だったんだね。で、その後、その大学者の地位を捨ててティローのもとに行くわけだけども、でもこれは別に、ナーローが真のグルであるティローに出会う前にやっていた修行や教えが全部無駄だったのかっていうと、そうではない。そうじゃなくて、逆にそれがあったからこそ、ナーローはティローの試練に耐えられたともいえる。つまりまずは徹底的な教えの理解から入ってるわけですね。徹底的に教えを理解して、あるいは徹底的に――まだ本質的なね、エゴの破壊まではいってないんだけど、一般的な戒律を守ったりとか、あるいは一般的な瞑想修行をやったり、あるいは肉体行やったりして、徹底的な基礎固め、教学を中心にした基礎固めがあったからこそ、最後の強烈なエゴの破壊のプロセスに耐えられたともいえる。だからこれはこれでしっかりとまた参考にすべきところだね。
だからこの辺は読みちがえちゃいけないですよ。「ああ、そうか」と。「教学を全部棄てて師の許へ行ったってことは、教学はいらないのか」っていう話ではないからね。逆に完全なる教学の理解があったからこそ、試練に耐えられたっていうよりも、エゴを破壊するっていうことの意味がギリギリ理解できたっていうかな。
今、「ギリギリ理解できた」っていう言い方をしたのは、普通は全く理解できないんです。つまり理解できないような状況に追い込まれるから。つまり理解できないような状況じゃないとエゴは破壊されないんだね。「はい。やりますよ、やりますよ」っていう感じじゃ破壊されないから(笑)。ね。例えば予告してね、あるいは同じようなことを例として見ていて、で、同じようなことが自分がにくるのかなって予想しててそれがきたとしても、あまりそれはエゴの破壊にはならない。もう予想だにしない形で、エゴがバーッて破壊されるわけだね。で、そこでもそれが自分の浄化のためであると、あるいはエゴの破壊のためであるってことが分かるのかどうかっていうのは、もちろん師匠に対する信頼っていうのはもちろん第一にあるけども、それプラス基本的な教えの理解、あるいは基本的な戒律や、基本的な修行による心のベーシックな浄化はできていたと見るべきだね。だからそういう意味でもこれは、相当高い段階の話であるとはいえると。
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