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勉強会講話「聖者の生涯 ナーロー」⑥(4)

◎明らかなる教え

【本文】

 ティローはまた一年間、黙って瞑想し続けました。ナーローはティローの周りを敬意を持って回り、教えを懇願しました。
 ティローは不意に立ち上がり、燃えている火の前に座って、言いました。
「もしも教えを求める弟子がいたなら、この火に飛び込んだであろう。」
 それを聞いてナーローは、躊躇せずに火に飛び込み、全身に大やけどを負いました。
 ティローはまた神秘的な力でナーローの傷を癒すと、さまざまな教えを与えました。

 ティローはまた一年間、黙って瞑想し続けました。ナーローはたまたま、祭を行なっている村を通り、おいしい食べ物を持ち帰って、ティローに供養しました。ティローはそれを食べ、言いました。
「これはおいしい。もっと持ってきてくれ。もし食べ物を渡してくれなかったら、食べ物に水をかけてこい。」
 ナーローは言われたとおりにもう一度食べ物をもらいにその村に行きました。しかし実はこの村では、同じ者に何度も供物をあげないという習慣があったので、ナーローは食べ物をもらうことができませんでした。そこでナーローは、ティローに言われたとおりに、食べ物に水をかけました。怒った村人達は、ナーローを袋叩きにし、ナーローはまた瀕死の重傷を負いました。
 ティローはまた神秘的な力で傷を癒すと、帰依についての教えをナーローに与えました。

 このまず二番目の「火に飛び込んだ」。これはさっきの飛び降りたと同じような話だね。
 で、三番目が――これも面白いね。まず托鉢に行ってね、食べ物を持ってきたと。そうしたら、いつもは全くティローは無愛想に食べるだけなのに、その日に限って「これはおいしい」と。「もっと持ってきてくれ」と。当然ナーローは師匠が喜んだので嬉しかったわけだね。で、それだけじゃなくてティローは「もし食べ物を渡してくれなかったら食べ物に水をかけろ」っていうわけの分からないような指示を出すわけだね(笑)。で、ナーローは言われた通りに行って、でももらえなかったと。そしたら本当に馬鹿みたいに師が言った通りに、水をかけたと。
 みなさんだったらどうしますか? あのね、これと似たような――似たようなっていうかその、これはつまり密教の世界なわけだけど――例えばね、お釈迦様とアーナンダ。アーナンダっていうのはお釈迦様のそばで侍者としてついていた、お釈迦様のいとこかな、いとこの弟子なんだけども。お釈迦様とアーナンダの話っていうかその関係を見ると、よくね、アーナンダは、例えばお釈迦様がいろんな指示をしてね、で、結構ね、アーナンダは自分の解釈でちょっと違うことをやったりするんだね。それはもちろん良かれと思ってですよ。例えば有名な例では、死刑囚がいっぱいいて、王様にもうすぐ処刑される寸前だったわけだけど、それを知ったお釈迦様が弟子のアーナンダに命じて「王様のところに行って、全員解放するように言ってこい」と。ね。「でもそれを王様がちょっと反対したらどうしますか?」と。「いいから、わたしがなんとかすると言ってこい!」と、ちょっとこう強い感じで言うんだね。で、アーナンダはまず政治的にというか、最初にストレートに王様のところに行かないで、まず囚人達のところに行くんです。囚人達のところに行って、「あなた達はもし解放されたならば、お釈迦様の弟子になる気持ちはありますか?」と。で、その囚人達は、「もしわたしたちが――まあおそらくかなりカルマが落ちて、もともとお釈迦様と縁があったんだと思うんだけど――もしわたしたちがお釈迦様と縁があったならば、こんな苦境には陥ってなかったでしょう」と。「もしこの状態から脱せたならば、お釈迦様の弟子にしてほしい」とみんな言ったんだね。アーナンダはそこで保証をとって、で、王様の前に行っても、ちょっとお釈迦様が言ったのとは違う言い方をするんだね。「お釈迦様は面倒見ると言っています」と。「囚人たちも、自分達も頑張ると言っているから、どうかお釈迦様に任せてくれないでしょうか?」と。で、そこでその王様は解放して、その囚人達はお釈迦様の弟子になったっていう話がある。
 これは、この原始仏教の世界ではオッケーなんです。これはだから一般社会のこととも似てる。つまり師匠は偉大ではあるが、その弟子がね、例えばいろんな状況を見て、師はこう言ったけど、でも今はこうするのがベストだってもし思ったら、自分の智慧とか正しい判断によって、それをやるのは別にオッケーというか。それはもちろんアーナンダの間違いではない。でも、密教は違うんだね。
 だから密教の場合は例えば「托鉢に行ってこい」と。「もしくれなかったら水かけて来い」って言われたら(笑)、そこで「師はああ言ったが、水をかけるのはちょっと……」っていったら駄目なんだね。かけて来いって言われたら、かけてくる(笑)。そこで何が起きようとも(笑)。
 だからこれはね、もう一回言うけども、すべての人がこの話を納得できるものではないと思う。で、それはそれでかまわない。でも、密教はそういう道なんだっていうことですね。つまり密教においては、いいですか、ストレートに言うと、一つは、さっきから言っている強烈な求道心。「わたしは真理を知りたいんだ」と。「そんな、わたしが理解している教えとか概念とかはどうでもいい」と。「真理を知りたいんだ」と。そして、もちろんそれに付随して、自己の、その教えも含めた観念の完全なる放棄。これが、この高度な密教の道には必要なんだね。
 それはね、よーく考えれば当たり前なんです。よーく考えれば当たり前ってどういうことかって言うと、いいですか――お釈迦様はお悟りになりました――これは例としてね――お釈迦様はお悟りになりました。そのお悟りになった内容っていうのは、はっきり言うと、言葉では表わせません。言葉では表わせない、何とも言いがたい絶妙なる内容です。しかしお釈迦様はそれを弟子に言葉で表わさなきゃいけないために、言葉で表わしました。しかもそれは当然対機説法だから、その目の前にいる弟子に対して一番合った言葉を使って表わしました。
 はい。これだけ見ても分かると思うけど、この話において、あくまでも主となるのは、つまりメインとなるのは、お釈迦様の悟りだよね。お釈迦様の悟りがあって、そこから湧き出てきた、その目の前の弟子に対する最も合う言葉が「教え」なんです。つまりダルマなんです。でもこれがひっくり返っちゃ駄目なんです、本当は。
 実はこれは、インド仏教とかチベット仏教とかの多くの人に布教されている教えでは、全然逆のことが説かれています。つまりダルマ、教えこそが一番大事なんだって説かれています。でもそれは実は、カモフラージュなんだね。何度も言うけども、教えなんてものは――「教えなんて」って言ったら変だけども――教えなんてものは、もう一回言うけども、どうしても表わせないものを、一応その目の前にいる人物のために表わした、一応の言い方に過ぎないんだね。大事なのはお釈迦様の悟り。
 じゃあ、もしお釈迦様がいたとしたら分かりやすいわけだけど、お釈迦様がいて、お釈迦様が言った教えがあるとしたら、当然大事なのはお釈迦様の方でしょ? 変な言い方だけど。例えばお釈迦様が、例えばですよ、お釈迦様は経典書かなかったけど、仮に書いたとしてね、お釈迦様が『仏教の教え』とか書いたとして、「さあH君、これが仏教だ」って言って渡してね、で、H君は一生懸命勉強して、で、次の日お釈迦様がね、全然違うことを言ったとするよ(笑)。うん。全然これに書いてあるのと全く別の――例えばこれではAということをやれって書いてたのが、「Aはやるな」とお釈迦様が言ったとするよ。で、そこでH君が、「ちょっと待ってくださいお釈迦様! この仏典にはAをやれって書いてありますよお釈迦様!」っていうのは変でしょ(笑)? つまりお釈迦様が出所なんだから。お釈迦様が悟りのメインなわけだから。だからそれが観念にとらわれることの無意味さなんだね。
 だからナーローみたいな大学者の場合は、本当はだからすごくとらわれやすいはずだった。「わたしは仏教を知っている」と。でもナーローが知っている仏教っていうのはあくまでも知識レベルの仏教であって、もしティローが本当に悟りを得た存在だったならば、そのティローの前においては、グルの前においては、その教えの観念も含めて全部投げ出す必要があった。つまりわたしは何も知らないんですと。もうあなたに身を委ねるしかないっていう態度をとるしかないんだね。で、これが、本当のこと言うと、一番ストレートな修行の道なんです。
 だからいつも言うけどさ、密教っていうのは本当は、秘密の教えといわれるけども、本当は最も当たり前の、最も明らかな教えなんだね。当たり前のことをやってるんです、実は密教っていうのは。逆に顕教といわれる一般的な教えの方が、かなり隠してると言ってもいい。なぜかというと、本当のこと言っちゃうとみんなの観念に合わなすぎるから。ね。
 例えばね、この世の中に、「さあ、教えなんてどうでもいいんですよ。真に悟った師の言葉こそが教えよりも上なんです」って言ったら、「いや、それは個人崇拝じゃないか」と。「それはちょっと納得できない。仏教って何なんですか」ってことになっちゃうよね。実際そういうこと言ってる人がいるのを聞いたことがある。ダライ・ラマ法王の本にも書いてあったけどね。ある欧米人の仏教徒の女性が、その人は原始仏教とかを学んでいて、で、そのあとにチベット仏教学んだときに、「チベット仏教の本を見ると、まるでグル、つまり師匠のほうが仏陀よりも上のように書いてある」と。「こんなことはあっていいわけないじゃないですか! 間違ってる!」ってわーって言ったらしくて、それに対してダライ・ラマはそれを認めてね、つまり「いや、それは確かに、そんなことはない」と。つまりブッダ・ダルマ・サンガというね、三宝こそがすべてであって」――みたいな感じでこううまく言ってるわけだけど、つまりそれは完全に隠してるんです(笑)。
 本当の本当の修行の肝っていうか、ポイントっていうのはかなり、明らかにすると、現代人の硬い頭ではショッキングなところがある。だからこのナーローの話っていうのも――このナーローの話こそまさにそうなんだけど、このナーローの物語っていうのは、ある意味これを見ると、わけがわからない秘密の教えだって考えるかもしれないけど、つまりあまりにもストレートすぎてわれわれは分からないんです。これどういう意味なんですか!?――この通りなんです(笑)。これ以外何もないんだと(笑)。あまりにもストレートすぎて、われわれの観念でいっぱいの頭には分からないんだね。だからわたしもこういう話はなかなか躊躇するときもある。躊躇するっていうのは、あまりストレートに言い過ぎるとどうなのかなと。まあ、と言いながら結構言ってるけどね(笑)。うん。

◎完全なコピー

 もう一回、もう一つ、誤解を恐れずに言いますよ。誤解を恐れずに言うと、これは今回みんなに協力して訳してもらった「パドマサンバヴァの教え」にも書かれてたけど、マハームドラーの一つのポイントは――これもみなさん、理解できるか分からないけど――完全なコピーなんだね。コピーってどういうことかっていうと、師匠がもう完全な境地を経験してしまったならば、それコピーしてもらえばいいじゃんっていう(笑)。マハームドラーっていうのはちょうど、いろんな訳語も当てはめられるけども、一つの訳語としては「偉大なる印」、つまり印っていうのはハンコとも言われるんだね。つまり芋版みたいな感じで(笑)、グルが例えば悟りという一つの形を自分のものにしたならば、あとはそれを百パーセント押してもらえばいい。でもそれは、弟子がある程度透明でないと、あるいは自分の中にあるものを全部投げ出してないと、不純コピーになるわけだね。自分の中にあるものを大事にしたままで師のものを頂いたとしても、それは非常に混ざったものになる。
 例えばつまり――これは仮の話としてね――悟りというものは純粋なブルーだとした場合、でも自分の中の世界は赤であると。その赤に執着してた場合、悟りのブルーの光をもらったとしても、出てくる答えは紫になってしまう。つまり不純になるんだね。で、こういう話もだからちょっと現代的に、多分言うと、多くの人は「えっ?」と思うかもしれない。それはちょっと違うんじゃないですかと。つまり言葉には出さなくても、やはり個性というかな、独自性というか独立性みたいなものを現代の人は重視するから、それに多分ひっかかると。でも誤解を恐れずに言うと、そういう面があるんだね。
 つまりまた全然別の言い方をすると、ここでいう悟りの境地というのは、別にそのグル特有のものではない。つまりそのグルが――例えばティローとかがティローの悟りを得たんではなくて、つまり言ってみれば、完全な悟りを得た人が誰でも到達する、例えば大海のようなところに溶け込んでいるわけですね、例えばこのティローはね。で、その境地を弟子にストレートにインプットする。これがマハームドラーの一つのポイントなんです。で、そのためには、身・口・意を――つまり自分の存在すべてをできるだけ純粋にし、師に合わせていかなきゃいけないんだね。
 だんだんこの物語を読んでいると、最後の方でだんだんそういう場面が出てくるけど――もうすべてわたしは、まさに師の手足ですと。道具ですと。一体化してます――ぐらいに、合わせていかなきゃいけないんだね。「わたしはこう考えます」とか「わたしのタイプはこうなんです」とか、そんなのはすべて捨てなきゃいけない。
 もう一回言うけども、これは密教の中の一つの道と考えてください。だから全員がこの道を歩む必要はない。でも、この道はそうなんだね。

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