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至高者の祝福(2)「解脱への道」

第二話 解脱への道

 聖シュカは続けて言いました。

「人は、実体のない名前や概念を通して、満足を求めようとします。そしてマーヤーでできたこの世界で幸福を求めて、まるで夢見るように、さまざまな世界をさまようでしょう。けれどもそこでは結局、真の幸福を獲得することはできないのです。
 それゆえ賢者ならば、それら本質的ではない楽しみの対象に対しては、肉体を維持しうる程度にかかわりを求めるべきでしょう。
 同時によく自分の心に、感覚の楽しみのむなしさを言い聞かせて、それらに執着を持たないように努めるべきなのです。
 過去のカルマによって、それら感覚的な楽しみが自然に得られるのは問題ありません。しかしわざわざ苦労してまでそれらを求めることは、結局はむなしく終わるということをよく理解して、そのようなものを追い求めるべきではないのです。

 ここに大地があるなら、苦労して寝る場所を探す必要があるでしょうか?
 わたしたちに腕があるなら、どうして枕が必要でしょうか?
 手でものがつかめるなら、多すぎる皿や入れ物が必要でしょうか?
 みすぼらしくても身を覆う布があるなら、どうして多くの美しい洋服などが必要でしょうか?
 他を生かすために生きる木々は、あなたに果物などをくれないでしょうか?
 河はあなたに水の恵みをくれないでしょうか?
 そして至高者は、保護を求める者をこばんだりするでしょうか?
 
 このように心を明るく楽天的に保って、自分の目標を正しく見定め、愛しき真我として心に宿る、無限で永遠なる主を、礼拝すべきです。
 このように主を礼拝することで、輪廻の原因となる種子が、心から消えていくのです。

 多くの人が世俗世界という地獄に落とされ、過去のカルマの結果ゆえに苦しむのを見るなら、獣ならまだしも、誰がかの至高者を瞑想するのをやめて、感覚の満足などを求めるでしょうか?

 完全なる純粋観照者である宇宙の主宰者に、バクティによって自分の心が完全に固定されるまでは、壮大な主のお姿に心を集中して、毎日瞑想すべきなのです。

 人が肉体を捨てるときには、自分の心を、時と場所に執着させてはいけません。そしてしっかりと正しい姿勢をとり、呼吸を制御して、心と感覚器官を管理するように努めるのです。
 純粋な理性で心を管理したなら、次にその理性を、より深い智性の中に帰入させ、さらにその智性を絶対的な真我の中に帰入させます。そして最後に真我をブラフマンの中に帰入させます。
 そのような境地に至った者には、神々を支配する「時」でさえ影響を及ぼすことはできず、ましてや時に支配される神々や、神々に支配される普通の生き物は、彼に対しては何の力も行使できないのです。またその境地では、サットヴァ・ラジャス・タマスの三グナも存在せず、自我意識も、大我も、根本原質でさえ存在しないのです。
 
 完全なる至高者以外を「そうではない」と否定していき、自分自身を肉体その他と同一視するのをやめて、崇拝すべき至高者の姿を、強い信仰心を抱いて、絶えず心に思い続けるのです。

 死にあたってヨーギーは、まず聖典から得た智慧により、感覚の喜びへの渇望をしずめます。そして、次のような方法で、肉体を捨てるようにします。
 まず最初に彼は、自分のかかとで会陰部を圧迫するようにして座り、感傷的な思いを克服して、六つのチャクラを通してエネルギーを上昇させていきます。
 よく自己を調御しつつ、へその付近のマニプーラ・チャクラに宿るエネルギーを、心臓の位置にあるアナーハタ・チャクラまで引き上げます。
 そのエネルギーを、喉の所にあるヴィシュッダ・チャクラまでもって行き、さらに精神集中の力によって、エネルギーを喉の一番上部まで押し上げるのです。
 さらにそこからエネルギーを、眉間のアージュニャー・チャクラまで持っていきます。そして、そのアージュニャー・チャクラに30分ほど集中してとどまった後、そのエネルギーを頭頂のサハスラーラにまで上昇させ、最後にはブラフマ・ランドラを突き破って、肉体と感覚器官を捨て、至高者との合一を得るのです。

 また、もしそのヨーギーが、ブラフマ天界や他の天界に行き、神通力を持ち、空中を自由に飛ぶシッダたちと楽しみたいと願うなら、彼は肉体を離れる時に、自分の心と感覚器官を、それらの世界に持って行くようにするのです。

 神への礼拝を行ない、厳しい苦行とヨーガを実践し、完全なる叡智を得る修行に励み、達人となった者の身体は、風のように微細となり、この三界の内と外を、自由に行き来できるようになるといわれています。ただ単に儀式を行なうだけでは、そのような自由な境地にはなれないのです。

 光り輝く中央管を通って、ヨーギーがブラフマ天界にまで進むとき、まず最初に彼は、大空を通り抜けて、火の神の世界へとたどり着くでしょう。その世界において、心に残る一切のけがれを捨てた後、彼は主ヴィシュヌによって支配される、イルカの形をした「星空界」へと上っていくのです。
 この「星空界」は、この宇宙が回転する輪の中心に相当するもので、ここを超えたなら、彼の身体は最も微細かつ純粋なものとなり、「偉大なる世界」へと上っていくでしょう。この世界は、この宇宙が終わるまで生き続ける神々が、喜びに満たされて暮らす世界なのです。
 その後、この宇宙が終わりを告げるとき、彼はそこから「真理界」へと上っていくでしょう。そこではシッダの最高者たちが、天界の乗り物に乗って暮らしており、2カルパ以上もの長きに渡って存続する世界なのです。
 その世界には悲しみや苦しみなどは一つもなく、老いもなく、また他のどんな恐怖も存在しないのです。その世界の神々が感じる唯一の苦痛とは、いまだ真理を知らぬ衆生が永遠に生死輪廻を繰り返して苦しむ様子を見て、慈悲の思いから生じる心の痛みなのです。

 その後、彼は、地・水・火・風の元素に順次没入し、最後は「空」へと帰っていきます。
 さらにそのヨーギーは、感覚器官と感覚対象の源へと順次帰入していき、また行為器官の力の源へも帰っていきます。このようにして、それらすべての要素は、それぞれの微細な姿へと帰っていくのです。
 その後、ヨーギーは、自我意識の源へと入っていくでしょう。さらにその自我意識を、宇宙的理性の原理へと帰し、さらにそれをプラクリティ(自性)へと帰入していくのです。

 その後、そのプラクリティさえも唯一の至高者の中に帰って行く時、いまや完全な祝福に満たされたそのヨーギーは、喜びに満ちて、平安そのものである至高者と合一するでしょう。この状態の完成を得たなら、その人はもはや二度と、この物質界に戻ることはないのです。
 
 
 ああ、王よ。これらが、あなたが尋ねられた、聖典に説かれる「解脱への道」なのです。かつてその昔、ブラフマ神が主クリシュナに質問したとき、それに答えて主クリシュナが示されたのが、これらの道だったのです。

 輪廻の渦に落ちた者にとっては、至高者へのバクティ(信愛)を目指す以外、他にどんな祝福された道もないのです。
 全ヴェーダを三度にわたって研究した結果、至高者へのバクティを育てることこそが、最高のダルマであるのだと、ブラフマ神は、智性によってそう結論づけたのです。
 すべて存在するものの中には、ただ一人の至高者だけが、真我として存在しているのです。理性などの現象は、純粋観照者である至高者の存在を推測するための、単なる補助役にしか過ぎないのです。
 それゆえ、人はいつでも、どんな環境にあろうとも、全身全霊をもって、ただ至高者だけを、見、聞き、語り、思わねばならないのです。
 
 聖者が語る、至高者についての、アムリタ(不死の甘露)のような言葉を飲むならば、人は感覚の楽しみに汚された心を浄化することが可能となり、やがて至高者の蓮華のような御足へと、徐々に近づくようになるでしょう。」

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