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ヴェーダーンタの実践(16)

21、Om kena ishitam patatir preshitam manah――心は誰によって管理されているのだろうか?(ケーナ・ウパニシャッド)

 マナスは、感覚と思考の器官である。
 それは、この道具を使っている何者かの支配下にあるということだ。
 ジーヴァ、つまり人間の魂は、心の監督者ではない。なぜならば、われわれは普通の人は心に情け容赦なく揺さぶられるのをわかっているからである。
 ゆえに、心の監督者である何らかの至高なる存在が存在しているはずである。
 彼はアンタルヤーミン、つまり内なる支配者であり統制者であるのだ。

22、心は強力なエンジンである。
 ならば、このエンジンを操る非常に知性のある操縦者が存在するはずである。

23、これは真我、またはブラフマンの存在を証明する一つの方法である。

 眼はドリク(認識者)であり、その対象はドリシュヤ(認識されるもの)である。
 心は認識者であり、眼は認識されるものである。
 真我は認識者であり、その変容された心は認識されるものである。
 さらに真我の認識者が探求されれば、それは無限後退に陥ってしまう。
 ゆえに、真我(すべてのもの、一切の心の目撃者)は、自ら存在し、自ら創造し、自ら光り輝き、独立しており、不滅であり、不変であり、時と空間と原因を超越している。
 それは他の何ものにも目撃されることはない。
 対象はさまざまだが、それを知覚する眼は一つである。
 インドリヤ(感覚器官)はさまざまだが、それを知覚する心は一つである。
 心はさまざまだが、それを知覚する真我は一つである。
 あなたは、多様の背後に一なるものを見つける。
 ヴィチャーラ(正しい吟味)が必要である。

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