ヴェーダーンタの実践(14)
16、眠っているときは、そこには感覚も、対象も、心も存在しないが、あなたは至福を経験する。
対象が存在しないならば、あなたはどこからその至福を引き出しているのか?
心は、眠っている間はブラフマンの中に休息している。この至福はブラフマンから引き出されているのだ。
さらに、眠っている間、他人は存在していない。「私」だけが存在しているのだ。
17、「われ思う、ゆえにわれあり。」――これはデカルトの哲学の基本となる土台である。
シュリー・シャンカラの見解に従うと、真我が幻影というのはありえない。なぜならば、それを否定する者は、それを否定している間でさえ、その真実を観照しているからである。
18、その本性におけるブラフマンは、言葉では言い表せないもの(アニルデーシャ)であり、知ることのできないもの(アグラヒャ)であるが、われわれはそれにある仮の定義を与えなければならない。
アドワイタは、ブラフマンから、他の性質を持つ対象をはっきりと区切るために、ある特質(viseshana)あるいは性質(lakshana)を述べ、そして問題となっている対象に集中するのを助けてくれている。
それらの性質とは、サット・チット・アーナンダとしてのエッセンス(スワルーパ・ラクシャナ)、あるいは全智全能、創造者などとしての付帯的なものである。
西洋の哲学者は、宇宙の背後に、偉大なる思考、偉大なる知性があるということを認めている。
ヴェーダーンタ・スートラの第二、第三の格言は、主の全智を示している。