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ラームプラサードの生涯(1)

ラームプラサードの生涯

◎文化的背景と若年期

 クマールハッタ(クマールハティ)は、コルカタの55キロ北にあるガンガーの岸辺の24パルガナス地区にある村の名前です。
 かつてこの村は、学問と文化における中心地であり、シュリー・チャイタニヤが降誕されたナヴァディープをも凌いでいました。
 この村が「クマールハッタ」という名前を持つようになったいきさつを語った興味深い物語があります。

 その地域の学者に経典の論争を挑むのを目的として、多くの学者がナヴァディープからハリサハル(クマールハッタの別名)に来たときがありました。しかし、ハリサハルの学者は、自分たちに破滅をもたらすであろう議論を避けるために、巧妙な策略を用いました。
 彼らは女性に変装した若い陶工を送り、訪れてきた学者に奉仕をしました。
 その陶工は、息子を装った少年を連れて、何とかして客に奉仕する女中に変装しました。
 そして言うまでもなく、この女中(陶工)は、仕事に送り出される前に、ハリサハルの学者に十分に教育されたのでした。

 翌朝の夜明け前、女中は家事で忙しくしていました。
 そして夜が明けたとき、カラスが鳴き始めました。
 女中の子供が、彼女のもとに駆け寄ってきてたずねました。

「お母さん、お母さん、カラスはどうして鳴くの?」

「どうして私がそれを知っているでしょう?」

 母親は答えました。

「私は無智な女なのです。ナヴァディープから来たパンディットのもとへ行って聞いてみなさい。」

 少年は学者のもとへ行って質問を繰り返しました。

「どうして私たちがそれを知っているでしょう?」

 困った学者たちは答えました。

「おそらく、朝なので、カラスは鳴いているのでしょう。」

 答えに不満があったので、少年は母親のもとへ戻って、すぐさまこの重要な問題の説明を求めました。
 そのとき母親は、サンスクリットの対句を朗誦して、しつこい子供を黙らせました。

「太陽は暗闇を破壊する。彼らも暗闇の一部分として破壊されるのを恐れて、カラスは大声で叫ぶ。『私たちはカラスです。私たちはカラスです。』と。」

 女中の口からサンスクリットの詞の引用を聞いて驚いた学者は、彼女がどのようにしてこの知識を得たのかを尋ねました。

「私は学者の近くに住んでいます。」

 彼女は答えました。

「そして、学者はいつもサンスクリットで議論しています。」

 女中がそのように学識をつけてしまったのならば、学者の面目が丸潰れであると、その賢い学者たちは考えました。そして彼らはまさにその日にこっそりと旅立ったのでした。

 このようにして、ハリサハルの学者たちは厄介な状況から救われました。
 この陶工への感謝の気持ちから、彼らは、彼らの村をクマールハッタ――「クマール」(ベンガル語で陶工の意味)、そして、「ハッタ」(村の市場)――と名づけられたと言われています。

 この村のそのような学識と文化を背景に、ラームプラサードは、おそらく1723年に、タントラ派の医師の家庭に生まれました。
 彼の父ラームラーム・センは優れたアーユルヴェーダの医師であり、またサンスクリットの学者でもありました。彼の母シッディーシュワリーは彼の父の二番目の妻でした。彼の最初の妻との間にニディラームという一人の息子と、二番目の妻との間に二人の娘と二人の息子――アンビカー、バーヴァニー、ラームプラサード、ヴィシュワナート――が生まれました。

 少年のときに、ラームプラサードは村の学校に送られました。そして彼は、自分は課程すべてを非常に短期間で終わらせる価値ある特別な生徒であるということを自分自身で証明したのでした。
 彼の父親は、評判のいいアーユルヴェーダの医師でした。彼は当然ながら、彼の息子にも家業を継ぐことを望んでいました。
 それゆえに彼は、ラームプラサードが短期間でヴィヤカラナ(文法)とカヴィヤ(詩)に熟達するように、サンスクリット学校に送り出しました。しかし彼はアーユルヴェーダには興味を示さず、父親は非常に失望しました。
 その代わりに彼は、他の言語を学ぶことを望みました。
 賢明な父親は、当時イスラム教支配の下にあったベンガルで、ペルシア語とヒンディー語が人生に好機をもたらすかもしれないと考えて、これらの二つの言語を学ぶように彼に指示しました。

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