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ラームチャンドラ・ダッタの生涯(1)

ラームチャンドラ・ダッタの生涯

 シュリー・ラーマクリシュナの在家の弟子であるラームチャンドラ・ダッタは、断固とした信を師に持っており、師に対する彼の愛と信仰はあふれんばかりであった。彼は、シュリー・ラーマクリシュナが一日でも訪れた場所はどこであれ神聖になり、また師のもとを訪れ、彼に一度でも仕える者は誰であれ祝福される、とよく言っていた。ラームはそのうえ、シュリー・ラーマクリシュナがカルカッタの信者を訪ねるために乗った馬車は、その御者と馬も共に、みな師の一触れによって聖別されると断言した。

 多くの人々が、ラームの振る舞いは極端だと思った。あるとき、ある人が皮肉を込めて述べた。

「もしそれが事実なら、そこに何か恐れるものはあるのか? 多くの人々がシュリー・ラーマクリシュナを道で見かけ、多くの御者が彼を運んだ。あなたはこれらすべての人々が解放を得ると考えるのか?」

 ラームチャンドラの顔は赤面し、熱烈にこう答えた。

「師を運んだ御者の御足の塵を取りに行きなさい。師を見たドッキネッショルの掃除人の御足の塵を取りに行きなさい。これはあなたの人生を純粋で祝福されたものにするだろう。」

 ラームチャンドラ・ダッタは、一八五一年十月三十日、カルカッタで生まれた。彼の父であるヌリシンハ・プラサード・ダッタはクリシュナを信仰しており、彼の母であるトゥラシーマニは信心深さと優しさで知られていた。これらすべての良い性質をラームは両親から吸収した。
 彼が二歳半のとき、彼の母は亡くなり、家庭内の幾人かの身内の女性が彼の世話をした。クリシュナへの礼拝が、ラームの小さい頃の大好きな遊びであった。彼はときどき祝祭の準備をして、遊び仲間を招待し、彼らとプラサードを分け合った。
 別の折、彼はゴーピーの格好をして女神の前で踊った。ラームはまた、家の近くの僧院を訪ねるのを好み、そこで別の階級の僧と接した。この僧は、信仰心と宗教的な熱情を持つその少年を愛した。

 少年時代からラームは非常に勇敢で、自分の信念にまっすぐで、誰もその信念に反して行動するよう彼を説得できなかった。彼が十歳のとき、彼はカルカッタから約二五マイル離れたところに住む親戚の家を訪れた。この親戚は、ラームが厳格な菜食主義であることを知っていたが、それにもかかわらず彼はラームに非菜食の食事を給仕し、彼に食べるように説得した。ラームは激怒し、即座にその家から去った。彼は電車のチケットを買うお金を持っていなかったが、気前の良い人物が、彼が家に帰ることができるように一枚のチケットを購入してくれた。

 そのうちラームの父親は再婚したが、ラームは継母と仲良くすることはなかった。ラームの父は再婚後間もなくして、金銭的な困難から、先祖代々伝わる家を売らねばならなくなり、ラームは身内の家へと引っ越した。
 ラームは若いころ、さまざまな種類の困難に苦しんだが、それでも彼は学問をやりぬいた。彼はジェネラル・アッセンブリーズ・インスティトゥーションで勉強し、あとになってカルカッタのキャンベル医学専門学校に合格した。
 卒業後しばらくして、彼は政府のキニーネの試験官に任命された。彼はまたこのころに結婚した。彼は財政的にやっていけるようになったあと、家族のためにカルカッタの中心部のシムラーに家を購入した。
 ラームは自然科学に大変興味を持ち、大変熱心にイギリス人の教科主任のもとで化学を学んだ。この科目を徹底的に学んだ結果、ラームは土着の薬効のある植物から、赤痢の解毒剤を抽出することに成功した。この薬は行政に認められ、一流の医者にも認められた。その結果、ラームの名声は広まり、イギリスの科学者組合のメンバーとして任命された。彼はまた政府の科学試験官に昇格し、カルカッタ医科大学で軍隊の生徒に教えるよう依頼された。
 その科学と近代の知識への素晴らしい熱意により、ラームは素晴らしい講師となった。しかしそれはまた、彼を無神論者にもした。彼は自身の言葉で次のように述べた。

「あの頃、われわれは神を信じていなかった。われわれは、あらゆるものは起こり、変化し、また自然の力によって消滅すると考えていた。われわれは全くの唯物主義者であって、食べること、眠ること、快適な生活が人生の最高善であるという見解を持ち続けたのだ。」

 ラームは神と宗教について議論することを好み、議論相手を負かすことに大変な満足を見出した。この無神論への強い傾倒は五年間続いた。

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