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ライトエッセイ さ・・・サーリプッタ

 言わずと知れた、「智慧第一」といわれたお釈迦様の一番弟子。
 サーリプッタというのはパーリ語表記で、サンスクリット語だとシャーリプトラとなる。

 マハーモッガッラーナと共にお釈迦様の二大弟子ともいわれた。
 マハーモッガッラーナとは少年時代からの親友で、ともに真理を求めて、最初にサンジャヤという宗教家のもとに弟子入りする。
 そして、「もしどちらかがアムリタの境地(解脱)に達したなら報告しよう」と約束して、各々修行に励んでいた。

 ある日、サーリプッタは道端で偶然、お釈迦様の弟子であるアッサジ(サンスクリット語ではアシュヴァジット)を見かける。
 そしてその立ち居振る舞いを見て、この人はただものではないと感じる。
 実際、ある境地に達した修行者は、見る人が見れば何か特別なものを感じさせるものだが、もちろん後にお釈迦様の一番弟子となるサーリプッタほどの人だから、その見る目も確かだったのだろう。
 そこでサーリプッタはアッサジに、あなたは何者かと尋ねる。
 アッサジは、自分は取るに足らない、初心の修行者にすぎない。しかし偉大なるブッダであられるお釈迦様に弟子入りしていると答える。
 そして教えを説いてほしいというサーリプッタの懇願に対してアッサジは、自分は無智なので教えなどを説くことはできないが、お釈迦様が説かれた教えで覚えているものを一つお伝えしましょう、と言って、次の詩を唱える。

「生じたものは必ず滅する。
 生じることと滅することが滅したならば、それがニルヴァーナである。」

 天才サーリプッタは、この詩を聞いただけで、ある段階の悟りと解脱の境地に達してしまった。

 そこでサーリプッタは約束通り、友マハーモッガッラーナのもとへ向かった。
 マハーモッガッラーナは遠くからやって来るサーリプッタを見ただけで、何かが違うと感じる。そしてサーリプッタに尋ねた。

「君はいつもと違って、非常に光り輝いて見える。もしや、アムリタの境地を得たのか?」

 サーリプッタはそうだと答え、アッサジとのやり取りを話した。そしてその教えを聞いて、マハーモッガッラーナもまた、その場である段階の悟り・解脱に達してしまった。

 そこでサーリプッタとマハーモッガッラーナはサンジャヤのもとを去り、お釈迦様に弟子入りすることを決意する。
 すると、サンジャヤの五百人の弟子たちもまた、サーリプッタとマハーモッガッラーナを慕ってついていき、お釈迦様の弟子となった。
 このときがお釈迦様の教団が大きく発展する最初のきっかけとなったという。
 もちろんそのおおもとは、アッサジの功績であろう。お釈迦様の教えを修習し、その真理の香りや輝きが自然にあふれ出て、ただものではないとサーリプッタに感じさせるほど、お釈迦様の教えをアッサジが体得していたからであろう。いかにサーリプッタが見る目を持っていたとはいえ、もしアッサジが単にお釈迦様の弟子というだけでその教えを少しも体得していなかったら、サーリプッタも何も感じずに素通りしていたかもしれない(笑)。

 ところで、サーリプッタの本名はウパティッサという。サーリプッタという呼び名は、プッタ(プトラ)が「息子」という意味なので、「サーリ(シャーリ)さんの息子」という意味だというのが定説だが、果たして本当にそうなのだろうか? ウパティッサというかっこいい名前があるのに、わざわざ出家して「サーリさんの息子」と呼び名を変えるだろうか笑?
 サンスクリット語やパーリ語は一つの単語でいくつもの重層的な意味を持つ。そこでこのシャーリという単語を辞書で調べたところ、いろいろな意味があったが、特に宗教的な意味を持つ意味はなかった。もちろんしっかりすべて調べたわけではないし、昔あった意味などもあるかもしれないので何とも言えないが。
 しかしその中に、「チェスの駒」というのがあって面白いと思った(笑)。
 バクティヨーガなどの発想からすると、偉大な師や神の化身がいて、その弟子や信者は、自分が偉大な師やヒーローになることは求めない。あくまでも彼は、自分を無にして、その偉大な師や神の化身のリーラーや救済計画の「ただの駒」として遠慮なく使っていただくことを理想とする。
 つまり意訳すると、サーリプッタという名前は、「お釈迦様の駒であり息子である者」とも取れるのかもしれない。

 さて、サーリプッタはお釈迦様に弟子入りしてからは、「お釈迦様の一番弟子」「智慧第一」として知られるようになるが、そのように皆から称賛されるポジションについてからも、サーリプッタは、自分をお釈迦様のもとに導いてくれたアッサジへの感謝の念を忘れることなく、生涯、アッサジのいる方向には決して足を向けなかったという。

 サーリプッタは「智慧第一」と言われるだけあって、仏典では、お釈迦様の代わりに他の弟子に教えを説いたり、かっこいいエピソードも多いが、そのような颯爽とした話よりも、この「生涯アッサジのいる方向に足を向けなかった」というエピソードこそが、サーリプッタの謙虚さやお釈迦様への帰依心、その純粋な人となりをあらわしているようで、わたしはとても好きである。
 

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