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パラマハンサ・ヨーガーナンダ


 パラマハンサ・ヨーガーナンダの生涯については、有名な「あるヨギの自叙伝」に詳しく載っています。これはとても良い本ですが、厚い本ですし、読んだことがない人のためにも、ここで少し要約してみたいと思います。より詳しく知りたい方は、「あるヨギの自叙伝」をお読みください。

 ヨーガーナンダは、「ヨガナンダ」として一般には有名ですが、正確にはヨーガーナンダ(ヨーガ・アーナンダ=ヨーガの至福)という発音が正しいですね。

 彼は1893年1月5日、インド東北部のヒマラヤに近いゴーラクプールに生まれ、そこで最初の八年間を過ごしました。本名はムクンダ・ラール・ゴーシュといいました。両親は、ヒマラヤの聖者ババジの弟子であるラヒリ・マハーシャヤの弟子でした。この両親も偉大な真理の実践者でしたが、ムクンダは子供の頃から、ラヒリ・マハーシャヤの弟子の、あるいは他の系統の聖者方と、さまざまな交友をする機会に恵まれていました。その辺の具体的な描写は、「あるヨギの自叙伝」に詳説されています。

 ムクンダが交友を持った聖者の中には、マスター・マハーシャヤもいました。マスター・マハーシャヤは、ラーマクリシュナ・パラマハンサの弟子で、「ラーマクリシュナの福音」の著者です。ラーマクリシュナ自身は1886年に亡くなりましたが、ムクンダはこのマスター・マハーシャヤを通じてラーマクリシュナの教えを聞いたり、ラーマクリシュナの寺院を訪ねたりしました。
 あるとき、神から意識が離れてしまったムクンダに対して、マスター・マハーシャヤは宇宙の女神のヴィジョンを見せました。ムクンダはマスター・マハーシャヤを大変尊敬していましたが、マスター・マハーシャヤは、ムクンダにこう言いました。
「私はお前のグルではない。お前の師はやがておいでになる。
 その師の導きによって、これまでお前が愛と信仰を通して得ていた神の経験は、計り知れない叡智を通しての経験へと変わっていくだろう。」

 その予言は、しばらく後に現実のものとなりました。そのころムクンダは、実家のあるコルカタを離れ、ヴァラナシのマハーマンダル僧院というところに住み込んで、霊的な訓練を受けていました。しかしムクンダは、考え方の違う僧院の他の生徒達とうまくいかずに悩んでいました。
 そんなある日、ムクンダは、神の答えが得られるまでは絶対に祈りをやめないと固く心に決めて、屋根裏部屋に入りました。
「慈悲深い聖母様、あなたご自身の幻か、あなたのおつかわしになる師を通して、御心をお示しください。」
 ムクンダが数時間にわたって祈りを続けると、神々しい女神の声がどこからともなく聞こえてきました。
「お前の先生は、今日おいでになります。」

 その後、おつかいのためにムクンダがヴァラナシの路地を歩いていると、黄褐色の衣をまとったキリストのような風貌の一人の男がじっと立っていました。その顔は、一目見ただけで、昔からよく知っている顔のように思われました。
「グルデーヴァ(尊い導師)!」
 それは、ムクンダの瞑想の中に、これまで何度となく現われていた、約束された師だったのです。
「おお、わが子よ、とうとう来たか!
 なんと長い年月、お前の来ることを待ったことだろう!」
 師はこのように言いました。これがムクンダと、その師ユクテスワとの出会いでした。

 学校の勉強が大嫌いで、ただ神だけを求めて修行したがっていたムクンダに対して、ユクテスワは、大学へ入るための勉強をすることを指示しました。
「お前は将来、西洋へ行くようになる。そのとき、インドから来た先生をはじめて見るかの地の人々は、お前が大学の学位を持っていると聞けば、それだけ信頼して、お前の語るインドの古い叡智の言葉に耳を傾けるだろう。」
 ユクテスワは、ムクンダの両親と同じく、ラヒリ・マハーシャヤの弟子でした。ムクンダがユクテスワの弟子となったことを知ったムクンダの父は、ムクンダに言いました。
「息子よ、お前と私の願いがともにかなえられて、こんなにうれしいことはない。
 お前は、私がかつて自分の師を見出したときと同じように、奇跡的ないきさつを経て自分の師にめぐり合った。これは明らかにラヒリ・マハーシャヤの聖なるみ手が我々を導いてくださった証拠だ。お前の先生は、遠いヒマラヤに住む聖者ではなく、ごく身近におられる方だった。私の祈りはかなえられた。」
 ムクンダは聖地ヴァラナシで師ユクテスワに出会いましたが、ユクテスワが普段住んでいるのは、ムクンダの実家と程近い、セランポールという場所だったのです。

 ユクテスワは、セランポールにある僧院に、若い弟子達を集めて指導していました。ムクンダもこの僧院で、ババジ、ラヒリ・マハーシャヤから伝わった修行の伝授を受け、またさまざまな霊的・精神的指導を、ユクテスワから受ける日々が続きました。
 しかし半年ほどたった頃、ムクンダは、ヒマラヤに行って修行したい旨を、ユクテスワに申し出ました。ムクンダは、幼い頃からのヒマラヤへの憧れがまだ消えていず、またユクテスワの偉大さに、まだ十分に気付いていなかったのです。
 ユクテスワは、
「叡智は、鈍重な山よりも、悟りを開いた人間に求める方が、容易に得られるものだ」
と言って、やんわりとそれに反対しましたが、ムクンダは何度も繰り返し嘆願しました。ユクテスワは沈黙し、それ以上何も言いませんでした。
 そこでムクンダは、ヒマラヤに行く前に、ラヒリ・マハーシャヤの弟子であるラム・ゴーパールという聖者を訪ねることにしました。彼からヒマラヤ行きの同意をもらおうと考えたのです。
 ムクンダがラム・ゴーパールのもとをたずねると、この聖者はすでに全てをお見通しでした。

「若いヨーギーよ、お前は先生のもとを飛び出してきたね。だがお前の先生は、お前に必要なものを全てもっておられる。すぐにかえりなさい。山はお前の師ではない。
 えらい大師は山の上に住まねばならぬ、という決まりはない。
 ヒマラヤやチベットが聖者の専売特許ではない。内なる準備を怠って、外ばかりいくら探し回っても無駄なことだ。霊的開眼のためにはどんな障害も乗り越えて、地の果てまでも喜んで行くだけの決心が定まれば、師はすぐ身近なところにでも与えられるものだ。」

「お前の家には、ドアを閉めてひとりになれる部屋があるかね?」

「はい。」

「そこがお前の洞窟だ。そこがお前の聖山だ。そこが、お前が神の国を見出す場所だ!」

 --この聖者の言葉によって、長い間ムクンダに付きまとっていたヒマラヤに対する執着は、瞬時に消え去ったのでした。

 そんなムクンダを、ユクテスワはさまざまな方法で導いていきました。あるときは神秘的な力で、ムクンダに壮大な「宇宙意識」を経験させ、その後通常の意識の連れ戻して、言いました。
「あまり恍惚に酔っていてはいけない。お前にはまだこの世でなすべき仕事がたくさん残っている。さあ、バルコニーの床を掃除して、ガンジス河の堤を散歩しよう。」

 この体験の後、ユクテスワは、この宇宙意識状態に自在に入ることができる方法をムクンダに伝授し、ムクンダは毎日のように、この神と一体化した恍惚状態を経験し続けました。

 その後ムクンダは、コルカタ大学の学位を何とか無事にとり、そしてついに、ユクテスワのもとで、正式に出家した僧侶となりました。
 ムクンダは、「インド最大の哲学者」「インド三大聖者の一人」と呼ばれるシャンカラ・アーチャーリヤから連綿と受け継がれてきた「スワーミー僧団」の僧侶として出家しました。ユクテスワは出家に際して、ムクンダに、自分で出家者の名前を考えることを許しました。ムクンダは少し考えて、「ヨーガーナンダ」と答えました。こうしてムクンダはこのときから、ヨーガーナンダとなったのでした。

 その後ヨーガーナンダは、一般教養の科目に加えてヨーガの瞑想や体操などを教える学校をインドに設立し、その生徒は急速に増えていきました。

 あるときヨーガーナンダは、ユクテスワにたずねました。
「先生は、今までにババジにお会いになったことがありますか?」
「あるとも」
 こう言ってユクテスワは、ババジとの邂逅の話を、ヨーガーナンダに明かしました。ユクテスワが初めてババジに会ったとき、ババジはこう言ったといいます。

「私は、お前が東洋ばかりでなく、西洋にも同様の関心を持っていることを知っていた。
 私には、全ての人々に向けて開かれたお前の心の痛みがよくわかる。
 東洋と西洋とは、その霊性と活動力を互いに調和させて、黄金の中道を作り出すよう協力し合わなければならない。
 インドは、物質的な面では西洋から多くのことを学ばなければならない。だがその代わり、西洋に対しては、自分の宗教的信条を普遍的な法則の上に確立させるヨーガの科学を教えることができる。
 そこでお前に、来たるべき東西両洋の交流に備えて、ある役割を果たしてもらいたい。私は、これから数年後、お前に一人の弟子を送るつもりだ。彼を、将来西洋にヨーガを普及させる人間として仕込んでもらいたいのだ。」

 ユクテスワは続けて、ヨーガーナンダに言いました。

「私の息子よ。お前こそ、ババジが私に送ると約束されたその弟子なのだ。」

 そしてこの言葉どおり、1920年、ヨーガーナンダはアメリカにわたり、講演を始め、またヨーガを教えるためのセンターを設立し、ヨーガの技法やインドの叡智の伝授と普及に努めたのでした。

 1935年、ヨーガーナンダはインドに帰国し、師ユクテスワとも再会しました。そしてユクテスワはヨーガーナンダに、パラマハンサという称号を授けました。パラマハンサとは「至高の白鳥」の意味で、偉大な聖者にのみつけられる称号です。こうして彼はパラマハンサ・ヨーガーナンダと呼ばれるようになりました。

 1936年、ヨーガーナンダは、有名なクンバメーラ祭その他に行くために師のもとを少し離れ、また師の住むコルカタに戻ってきました。しかしそのとき、師はそこにはおらず、プリという地に行っていました。
 「すぐにプリに来い」
 1936年3月8日、コルカタに住むユクテスワの弟子の一人に、プリにいる同僚の弟子から電報が届きました。それを伝え聞いたヨーガーナンダは事態を直感しました。
 翌日、ヨーガーナンダは列車でプリへと向かい、その翌朝、プリ駅のプラットホームに降り立ったヨーガーナンダのもとに、一人の見知らぬ男が近づいてきて、こう言いました。
「あなたは先生が逝かれたことをご存知ですか?」
こう言うと、その見知らぬ男はどこかへ立ち去っていきました。
 ヨーガーナンダがユクテスワの部屋に着くと、ユクテスワはすでに、瞑想の姿勢で座ったまま、亡くなっていました。
 しかしその三ヶ月後、ヨーガーナンダは復活したユクテスワと会い、多くの教えを受けたといいます。

 その後、ヨーガーナンダはインド各地で講演等の仕事を行なった後、再び西洋に渡って精力的な活動を続けました。
 ヨーガーナンダよりも少し前に、西洋にヒンドゥー教やヨーガの叡智を広めたのは、ラーマクリシュナ・パラマハンサの弟子であるスワーミー・ヴィヴェーカーナンダでした。ヨーガーナンダはその後を継ぐようなかたちで、アメリカやヨーロッパに、ヨーガやヒンドゥー教の教えと技術を広めました。そして1952年3月7日、ロサンゼルスの晩餐会において最後の演説をした後、マハーサマーディ(聖者が意識的に肉体を脱ぎ捨てること=死)に入り、この世での使命を終えたのでした。

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