バクティの精髄(43)
◎似非パラーバクタ
バクティの道における無智な初心者は、こう言う。
「わたしはパラーバクティを実践します。わたしには、寺院に行く必要も、神像に礼拝する必要もありません。神像を礼拝したり、花を捧げたり、灯明を振ったりして何になりますか?」
このような者は、深刻な錯覚に陥っている。
これが、霊性の師の助言や援助なしで霊性の道を歩み始める者たちの有り様である。
この者たちは、自分の好きなように修行する。
低次の心の指示に従う。
このような者たちには、決して修行の進歩はない。
彼らはまるで、似非ヴェーダーンティストのようだ。
バクティを開発するのは非常に難しい。
バクティヨーガは、ヴェーダーンタやジュニャーナヨーガと同様に難しい。
内なる敵、すなわち、愛欲、貪り、怒り、嫌悪、エゴイズム、嫉妬は、非常に非常に強力である。
これらは、信仰(バクティ)を開発する道の途上に立ちはだかっている。
求道者は、さまざまなバクティヨーガのブーミカ(初期段階)を修めなければならない。ちょうど、学校の生徒がM.A(文学修士)のクラスに出席するには、まずB.A.(文学士)の試験に合格しなければならないようなものである。
求道者は、まず第一に、チャリヤイ(奉仕)とクリヤイ(儀式)を実践するべきである。
寺院に行き、プージャーをすべきである。
主のために花輪を作るべきである。
寺院の床を掃き清めるべきである。
アビシェーカのための水を運んでくるべきである。
灯明を掃除すべきである。
灯明を灯し、ベルを鳴らすべきである。
これらすべてを、信、献身、そして強烈なバーヴァを持って行なうべきである。
求道者は、何度も何度も、神の前に平伏するべきである。
パリクラマ(寺院の周りを歩き回ること)を行なうべきである。
ある求道者は、ベルを鳴らすこと、灯明をきれいにすること、水を持ってくること、花輪を作ること等は、品位に相応しくないと思っている。
卑しい召使いの仕事だと思っている。
そのような求道者は、何千万回生まれ変わっても、バクティを開発することは夢にもできないであろう。
彼らはバクティヨーガのなんたるかを理解できないのだ。
南インドのタミルの聖者、63人のナヤナルの生涯を学びなさい。
彼らは無学であったが、強烈で揺るぎない信仰心を主に抱いていた。
彼らは来る日も来る日も、寺院でチャリヤイ(奉仕)とクリヤイ(儀式)に明け暮れたのだ。
彼らはこれらを実践するだけで、シヴァ・サーユージャ(シヴァと一つになる境地)に達した。
パラーバクティの段階に達するのは非常に大変である。
パラーバクティとジュニャーナは同一である。
パラーバクティは最高のバクティである。
それは、完全で、無条件の、心からの自己の明け渡しによって生じる。
ミーラー、ナーマデーヴァ、ゴウランガ、エーカナータは、このバクティを持っていた。
求道者が、自分はパラー・バクティの最高段階に達していると、愚かにも不誠実に考え、チャリヤイ(奉仕)とクリヤイ(儀式)の実践を無視するならば、その求道者のわずかな信仰心さえも、すみやかに蒸発して消えてしまうだろう。
その者はすぐに、世俗(マーヤー)の底知れぬ地獄へと落ちてゆく。
謙虚であれ。シンプルであれ。
自分はバクティヨーガの分野において、唯一の取るに足らない修行者だと考えなさい。
求道心を強めなさい。
油断なくありなさい。
バクタと交わり、自分を世俗の誘惑、影響から守りなさい。
常に注意深くあれ。
そうして初めて、あなたはバクティにおいて成長することができる。
そうして初めて、神の恩寵は降るのだ。
正しくないトゥシュティ(満足)は、霊性の道における深刻な障害である。
マーヤーはさまざまなかたちで働いている。
マーヤーはさまざまなかたちをとって、さまざまなやり方で求道者を欺く。
バクティの第二段階にさえまだ至っていないというのに、求道者は偽って、自分はパラーバクティの最高境地に達しているのだと考えてしまうのだ。
これはマーヤーである。
その求道者は、サーダナーを放棄しているのだ。
さらなる進化は、そのような正しくない空想によって止まってしまう。
もしグルの下で暮らしているのなら、求道者はグルに欠点を指摘され、そのような空想に陥ることはないだろう。
傲慢さ、命令的で自己主張が強い性質、エゴ的な独立性、自惚れは、魅惑のヴェール、そして障害物となって働く。
彼は、独立した誤った考えを持ってしまうのだ。
彼自身、自分が本当に何をやっているのか、自分の立場が何であるかをわかっていないのだ。
パラーバクティの境地に達した求道者は、完全に無恐怖で、欲望がなく、怒りがなく、”わたし”がなく、”わたしのもの”もない。
彼は極度に謙虚である。
彼は何にも執着を持たない。
彼はすべての神の力を楽しむ。
彼はギーターの第十二章に列挙されているすべての徳を所有する。
彼は肉体意識を超越する。
これらのバクタの印を持っていないのに、「わたしはパラーバクタです」と言う者を信じてはいけない。
彼は偽善者である。
彼の言葉に価値はない。
彼は、習慣的な涙腺の刺激によって、偽りの涙を流す。
これは、バクタのプレーマから流れる偽りなき心からの涙ではない。
信仰の感情を取り違えてはいけない。
用心深くあり続けなさい。
主が、彼らに適切な理解をお与えくださいますように。
この地上から、そのような似非パラーバクティの修行者がいなくなりますように。
すべてを信、献身、歓喜、至福で満たすことができる、誠実で、謙虚な、真のバクタたちが、世界中に満ち溢れますように。
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